第1章
「宮坂さん、あなたの体はもう限界ですよ」
「三日続きの徹夜に、重度の低血糖。貧血の数値もありえないほど低い。このままじゃ、次に運ばれる先は救急救命室(ER)じゃ済みませんからね」
「ご家族は? 五回ほど連絡を入れたんですが、どなたも出られなくて」
病室のベッドに横たわったまま、私は極度の渇きに張りついた喉で、声を発することすらできなかった。
軽井沢のプロジェクトのため、四十三日間の連続残業を経て、昨晩ようやく最終案を仕上げたところだった。まさか送信ボタンを押した直後、デスクに突っ伏して意識を失うことになるとは思わなかったけれど。
スマートフォンを手に取り、画面を確認する。高場幸之助からの着信は、一件もなかった。
彼に連絡しようとした指が止まる。
タイムラインのトップに、越川明季が今日アップした投稿が表示されていたからだ。
写真には、抱えきれないほどの真紅の薔薇。その下で、二つの手がしっかりと重ね合わされている。
添えられたメッセージは一言。『Kセンセイ、素敵なサプライズをありがとう』
今日は、彼女の誕生日だ。
私といえば、三途の川のほとりから生還したばかりだというのに。
点滴の交換に入ってきた看護師が、私を一瞥して尋ねる。
「宮坂さん、ご主人はまだいらっしゃらないんですか?」
私は力なく首を振った。
「もう一度、電話してみましょうか?」
「いいえ、結構です」
医師からは静養を勧められたが、仕事のことが頭から離れず、私は翌日には退院手続きを済ませて帰宅した。
鍵穴にキーを差し込んだ瞬間、内側からドアが開く。
玄関には、酒の臭いをプンプンさせた高場幸之助が立っていた。
彼は私を見て、きょとんとした顔をする。
「なんだ、ずいぶん早いお帰りだな」
「私、昨夜入院してたの」
「入院?」
彼は眉をひそめる。
「なんで俺に言わなかったんだよ」
「五回電話したわ。あなたが一度も出なかったの」
「ああ……」
彼はバツが悪そうに頭をかいた。
「昨日は接待で飲んでてさ、マナーモードにしてたんだ。で、体は大丈夫なのか?」
「ええ、なんとか」
彼はスーツの上着を脱ぐと、私に放るように手渡してくる。
「ならよかった。ついでにこれ、掛けといてくれ」
上着を受け取り、クローゼットへ向かおうとした時だった。
指先に、何かが触れた。
私は足を止める。濃紺の生地から、一本の髪の毛をつまみ上げた。
亜麻色の、長くうねったウェーブヘア。
明らかに、私の髪ではない。
高場幸之助は以前、口癖のように言っていた。長い髪は嫌いだ、仕事ができなさそうに見えるし、家事の邪魔になるからと。
だからこそ、私は彼と過ごした数年の間、長年伸ばしていた髪を切り落とし、ずっと手入れの楽なショートヘアを保ち続けてきたのだ。
今ならわかる。彼は別にロングヘアが嫌いなわけじゃない。ただ私に対して厳しく、私にだけ、そんな要求を突きつけていただけだったのだ。
「どうした?」
高場幸之助が、不思議そうに近づいてくる。
