第3章
銀座、地下の隠れ家バー。
杉井将一が、ノンアルコールのモヒートをすっと差し出してきた。
「高場商事のキャッシュフローが止まったらしいな? 競合としては祝杯をあげるべきところだが、友人として一つだけ聞くぞ――宮坂、ついに動いたのか?」
私は答えず、バッグの中に忍ばせた辞表を指先でなぞる。
「ただのテクニカルな調整よ」
「とぼけるな」
杉井は鼻で笑うと、ブリーフケースから書類を取り出し、私の手の上に叩きつけた。
「これで五度目の契約書だ。諦めの悪い男だろう? 前の四回は、中身も見ずにシュレッダー行きだったからな」
彼は身を乗り出し、その瞳に愉悦と確信の色を浮かべる。
「今回もまた、あの男のためにスターリング社を振るつもりか?」
私はグラスに口をつけた。
「さあ、どうかしらね」
「来週月曜のプレスリリースは、君がスターリングに入社する絶好のタイミングだ」
杉井は声を潜める。
「高場はもう沈む泥船だ。宮坂、俺のところに来い。アジア太平洋地区執行社長のポストは、いつだってお前のために空けてある」
契約書に記載された報酬と権限は、東京中のプロ経営者が発狂するレベルだ。
だが、私はフォルダを閉じた。
「あと二日待って」
杉井が眉を跳ね上げる。
「何を待つんだ?」
私は立ち上がり、コートの襟を正した。
「もちろん、スターリングへの手土産を用意するためよ」
◇
まさか杉井と飲んでいるところを撮られ、幸之助に送られるとは思わなかった。
深夜、幸之助から電話がかかってきた。
「おい莉世! 杉井と何やってんだ! 俺はまだ生きてるぞ!」
私は慌てることなく、淡々と問い返す。
「ずいぶんと興奮しているのね。視察のほうは上手くいっていないのかしら?」
「話を逸らすな!」
幸之助が喚き散らす。
「あの写真はなんだ? 大勢の目がある場所で、よくも俺の顔に泥を塗ってくれたな」
私は冷ややかに笑う。
「ただの仕事の話よ」
「仕事の話であんなに近い必要があるか?」
彼は歯ぎしりしているようだ。
「今すぐビデオ通話にしろ! 家にいるのか確認させろ! 杉井の野郎がまだ隣にいるんじゃないだろうな!」
「いいわよ。浮気調査だというなら、公平にいきましょう。あなたの視察先も見せてもらうわ」
「やってやるよ!」
売り言葉に買い言葉で頭に血が上ったのか、幸之助から即座にビデオ通話のリクエストが届く。
通話が繋がる。
画面には、ホテルの部屋に一人でいる高場幸之助の姿。
「これで満足か?」
私はスクリーンショットを撮り、画像を拡大して送り返した。
「隠しても無駄よ。後ろの窓ガラス、反射してる」
画面の向こうが凍りついた。
掃き出し窓の反射には、バスローブ姿の越川明季が気怠げにワインを注ぐ姿が映り込んでいる。
そして窓の外に見えるのは、私たちが結婚十周年に式を挙げ直そうと約束していた教会だった。
嘘が暴かれ、幸之助が狼狽したのはほんの一秒のこと。
私はふっと笑い、静かに告げた。
「幸之助、離婚しましょう。離婚届はもう用意してあるから、帰ってきたらサインして」
