第3章
胸の奥で、鋭く鈍い痛みが爆ぜた。私は点滴のチューブを思わず押さえ、荒い息を吐き出す。
「どうした、薫子?」
いつの間にか病院に到着していた渋木明宏が、ベッドサイドへ駆け寄ってくる。普段は人を震え上がらせるその瞳が、今は焦燥に染まっていた。
「傷が痛むのか? すぐに医者を呼ぶ」
私が口を開くより早く、冴羽エリが声を上げた。
「まだそんな芝居を続けているの? お姉ちゃん」
「無理しないでよ。明宏さんは怪我したお姉ちゃんに情けをかけて、来てくれただけなんだから。壊れやすい人形なんて、男の人はすぐに飽きちゃうわよ」
――パァン!
乾いた破裂音が、病室の空気を一瞬にして凍りつかせた。
渋木明宏の手は宙で止まっていた。私でさえ息を呑むほどの力強さだった。
「失せろ」
明宏の声には、絶対零度の冷気が宿っていた。
「二度と薫子に話しかけてみろ。その舌を引き抜いてやる」
冴羽エリは頬を押さえ、信じられないといった怨毒の眼差しを一瞬だけ走らせた。だが、彼女は明宏の気性を谁よりも理解している。反論はしなかった。
代わりに、瞬時に目元を赤く染め、よろめくように腹部を押さえる。まるで激痛に耐えるかのように、彼女はふらふらと病室を出て行った。
明宏は深呼吸をしてから、私を慰めようと振り返った。
「薫子、あんな狂った女の言うことなんて……」
「手洗いに、行きたいの」
私は冷淡に彼の言葉を遮り、握られていた手を引き抜いた。
明宏は一瞬呆気にとられ、その瞳に傷ついた色が浮かんだ。それでも彼は頷いた。
「ああ……わかった。気をつけて」
病室を出て廊下の角を曲がったところには、先ほどまでしおらしく振る舞っていた女が壁に寄りかかって待っていた。
冴羽エリだ。
赤く腫れ上がった頬を押さえながらも、その口元には悪意に満ちた笑みが張り付いている。
「あの一発で、何かが変わるとでも思った?」
彼女は声を潜めた。まるで鎌首をもたげた毒蛇のように。
「明宏さんは一時の感情で動いただけ。ねえ、信じられる? 私がその気になれば、お姉ちゃんが一番大切にしているものなんて、すぐに奪えるのよ」
私は無表情のまま彼女を見つめた。
「聞いたわよ……プロヴァンスの別荘のこと」
冴羽エリが一歩近づく。その瞳には貪欲な光が宿っていた。
「賭けをしましょうか。彼が『老後を共に過ごす』という約束を守ってあの場所をお姉ちゃんに残すか、それとも私にくれるか」
私は答えず、彼女の横を通り過ぎた。
答える必要などない。結果はわかっているのだから。
病室に戻ると、明宏が電話に応対していた。その顔色は驚きと焦りで蒼白になっていた。
通話を切ると、彼は私の元へ駆け寄り、慌ただしく額に口づけを落とした。
「愛しい人、会社で急用ができた。すぐに戻るから、いいだろう?」
私は彼の袖を掴んだ。指の関節が白くなるほど強く。
「今夜はずっとそばにいてくれるって、約束したじゃない。お願い、渋木明宏……行かないで」
彼の一瞬の表情――罪悪感、躊躇、あるいは恐怖。
この一歩を踏み出せば、何か代償を払うことになると予感しているかのように。
だが、彼は優しく囁いた。
「今夜中には必ず戻る。約束する」
そうして、彼は消えた。
三十分後、携帯が震えた。
冴羽エリからのメッセージ。
動画ファイルだ。
再生ボタンを押す。極度の冷静さのせいで、私の手は不気味なほど安定していた。
動画の背景は会社ではなかった。病院の下にあるVIPラウンジだ。
渋木明宏がソファに座り、氷嚢を手に持って、冴羽エリの腫れた頬に慎重に当てている。
録音からは、エリの泣き濡れた声が響く。
『明宏さん、叩かれたことは恨んでないわ……でも、お腹が痛いの。お医者様が、ここの環境は閉塞的で、赤ちゃんによくないって』
明宏が眉をひそめる。その声には疲労が滲んでいた。
『どこへ行きたいんだ?』
『お姉ちゃんが……プロヴァンスに別荘を持っているって聞いたの』
エリが顔を上げる。計算され尽くしたタイミングで涙がこぼれ落ちた。
『あそこなら空気も綺麗だし、養生したいの。あのお屋敷を、しばらく私に貸してくれないかしら? 私たちの赤ちゃんのために』
明宏の手が止まった。
『あれは、冴羽薫子のためのものだ』
彼のおどおどとした声。
『二人で老後を過ごそうと決めた場所なんだ』
『ほんの少しの間だけよ……』
エリは彼の手を取り、自分の膨らんだ下腹部に当てた。
『生まれてくる前から赤ちゃんが苦しむのを、黙って見ているつもり? お姉ちゃんにはまた別の家があるでしょうけど、この子にはこれしかないのよ』
しばしの沈黙。
そして――渋木明宏は頷いた。
『わかった』
彼は低く言った。
『権利書を君の名義に移そう。気に入ったなら、そのまま持っていればいい。薫子には、また別のを買ってやるから』
動画の最後、冴羽エリはカメラを直視し、あの見慣れた残酷な笑みを浮かべ、口パクでこう告げた。
『見 た? あ な た の 負 け』
私はベッドの上で呆然としていた。携帯の画面の光が、徐々に消えていく。
彼がくれた優しさの欠片が、ガラス片となって私を突き刺す。
あの別荘は、私たちの未来への幻想そのものだった。白髪になるまで共に生きようと、彼が誓った場所だった。
それが今、別の女をなだめるためのチップになった。
私のためにしてくれたすべてを、彼は彼女のためにもできる。それどころか彼女のためなら、躊躇なく私を犠牲にできるのだ。
――よかった。
明日、私はここを去る。永遠に。
その夜、渋木明宏が戻ったとき、私はすでにベッドに入っていた。
彼は私の隣に横たわり、強く抱きしめてきた。首筋にかかる吐息。
「会いたかった」
彼は囁く。
「ほんの数時間だったのに、何年も経ったような気がする。君を失ったら、俺は生きていけない」
「……本当に?」
私は目を閉じたまま、うわ言のように呟く。
彼は私の肩にキスをした。
「そういえば、あの別荘のことなんだが――最近あの地域は気候が不安定らしくて、住むには適さないらしい。部下に命じて、スイスにもっといい場所を選ばせたんだ。今度はそっちにしよう、いいかい?」
私は闇に向かって微かに微笑んだ。心はすでに死灰のように冷え切っていた。
「好きにして」
翌朝、彼は出勤前に朝食を作ってくれた。
家を出る直前、私は彼に封をした一通の封筒を手渡した。
「これ、あなたに」
私は静かに告げる。
「でも、必ず二日後に開けてね。サプライズだから」
中に入っているのは二つ。
私の本当の妊娠検査報告書。
そして、冴羽エリが送りつけてきたあの動画。
私の車が高架橋から転落したというニュースを聞いたとき――
彼はそれを開くだろう。
そして悟るはずだ。冴羽エリにナイフを手渡したのは自分自身であり、そのナイフが、「いなくては生きていけない」と誓った女を殺したのだと。
渋木明宏が去った後、夏目悠が入ってきた。
「お車の用意ができました。ルートも確保してあります」
私は手の甲から点滴針を引き抜き、黒のトレンチコートを羽織った。
車は病院を滑り出し、海沿いのハイウェイへと疾走する。
道半ばで、また携帯が震えた。
冴羽エリからだ。
『ヒルトンホテルの最上階。彼もいるわ。最後のショーを見たくない?』
何を見せられるかはわかっていた。
それでも、私は向かった。
これが最後。別れの前の最後の一瞥として。
宴会場では、冴羽エリが星のように崇められ、中心にいた。
給仕たちは恭しく彼女を「渋木明宏の婚約者様」と呼ぶ。
明宏はそれを訂正しなかった。
ただ彼女に微笑みかけていた――かつて私に向けられていた、あの優しく馴染み深い笑顔で。
彼の母親までもが誇らしげに語っていた。
「エリさんがいなければ、渋木家の血は途絶えてしまうところでした。明宏、彼女を大切にするのですよ」
彼は軽やかに笑い、グラスを掲げた。
「俺がいつ彼女を冷遇しましたか? 冴羽薫子が持っているものは、それ以上に彼女に与えますよ(・・・・・・・・・・・・・・)」
それが、ラクダの背骨を折る最後の一本の藁だった。
もはや、許す必要すらない。
きびすを返して立ち去るとき、私は最後にもう一度だけ振り返った。
彼は笑っていた。彼女の肩に腕を回し、虚構の幸福に浸りながら。
私は低く呟いた。
「渋木明宏。さようなら、永遠に」
三十分後。
渋木明宏が『世継ぎ』への祝福を受け、エリの体を抱き寄せている最中だった。彼のプライベート用携帯が狂ったように震えだした。
夏目悠からだ。
「渋木さん……」
夏目悠の声は、聞き取れないほど震えていた。
「奥様の車が、雲山ハイウェイで制御不能になったトラックと……」
「激しい爆発を伴って、深海へ転落しました」
「生存者は、いません」
渋木明宏の手からグラスが滑り落ちた。深紅の液体がカーペットに広がり、まるで見るも無惨な血だまりのように染みていく。
「今……なんて言った?」
