第3章
翌日、私はいつも通り講義に出席した。
教室に足を踏み入れた瞬間、それまでの賑やかなお喋りが、まるで吹き消された蝋燭のようにぴたりと止んだ。
室内にいた全員の視線が、一斉に私へと突き刺さる。
「信じられない。よくもまあ、来られたものね……」
「聞いた?冬木さん、昨夜、灰原教授との婚約を破棄したんですって……」
「一体、何が原因であんな思い切ったことを?」
囁き声が、崖に打ちつける波のように私を襲う。私は背筋を伸ばし、意識して優雅な足取りで、いつもの席へと向かった。
私の隣。昨日まで誰かがいたはずのその場所は、まるで疫病神でもいるかのように、ぽっかりと空けられていた。クラスメイトの皆さんは、そこから逃げ出すための『やむを得ない理由』を、いとも簡単に見つけ出したご様子だ。
灰原景は時間きっかりに姿を現した。白衣が、まるで猛禽類の翼のようにはためいている。
彼の視線が室内をさっと見渡し、ほんの一瞬、私の上で止まった。その昏い瞳に宿るものを、私は読み取ることができなかった。後悔だろうか?怒り?それとも、ただの冷たい計算か?
「本日は心臓血管系について考察する」
彼の声には、いつも通りの権威と、揺るぎない威厳がこもっていた。
「冬木さん、動脈経路について説明してもらおうか」
講堂の空気が、どろりと重くなったように感じられた。かつての恋人同士による公の場での対決を目の当たりにして、学生たちは誰もが固唾を飲んだ。
私はゆっくりと立ち上がり、明瞭で揺るぎない声で言った。
「ええ、教授。動脈系は、真実そのものと同じく、明確で逸れることのない経路を辿ります」
何人かの学生が意味ありげに視線を交わした。これから始まる長い戦いの火蓋は、私が切って落としたのだ。
灰原景の指が、教壇を二度、とんとんと叩いた。
「よろしい」
だが、彼の瞳に危険な光が閃いたのを、私は見逃さなかった。
ー
解剖学実習室は、ホルマリンの匂いに満ちていた。
私は、夜を徹して精魂込めて仕上げた解剖図に身をかがめていた。血管一本、筋繊維一本に至るまで、科学的な精密さで描き上げた傑作だ。この図解こそが、私的な混乱の中にあっても揺るがない私の献身を証明する、唯一の救いとなるはずだった。
「あらまあ!」
甲高い悲鳴が、実習室の集中した静寂を打ち破った。恐怖に目を見開く私の前で、ホルマリンの瓶が「偶然にも」私の机の上で倒れ、腐食性の液体が貴重な図面を瞬く間に侵食し、何時間もの労力を判読不能な染みに変えていくのを、ただ見ているしかなかった。
「大変だ、千紘さん!あなたの綺麗な図面が……」
灰原琴音が、まるで心配そうな天使のように私の隣に現れた。その顔は、完璧に装われた同情の表情を浮かべている。
「なんてひどい事故なんでしょう」
私は台無しになった紙を睨みつけ、拳を固く握りしめた。
「ええ。実に不運ですわね」
「少し時間をとって……気持ちを落ち着かせたらどうかしら?」と灰原琴音は言った。
「個人的な問題が、どれほど集中力の妨げになるか、みんな分かっているわ」
他の学生たちが、ひそひそと囁き始めた。
「冬木さん、最近どうも落ち着きがないみたい……」
「婚約破棄なんて、さぞショックだったでしょうね……」
「やはり女性は感情的すぎて、医学の厳しさには向いていないのかも……」
私は鋭く顔を上げ、その視線はメスのように室内を切り裂いた。
「ご親切にどうも、灰原琴音さん。ですけれど、今ほど私の集中力が高まっている時はありませんわ」
他の学生たちの方へ向き直り、私は声を張り上げた。
「学問の探求に必要なのは感傷ではなく、精密さです。この図は今夜描き直します――そして、以前のものより更に良いものにしてみせますわ」
灰原琴音の天使のような微笑みが一瞬だけ揺らぎ、その下に隠された遥かにどす黒い何かが垣間見えた。
ー
臨床実演室は、期待に満ちた熱気でざわついていた。灰原景は診察台の傍らに立っていた。台の上では、工場労働者の男性が苦しげに息をし、その顔は痛みで土気色になっていた。
見学ギャラリーは学生や教職員で埋め尽くされ、誰もがこの医学部で最も注目を集めるドラマの成り行きを固唾をのんで見守っていた。
私は患者に歩み寄り、聴診器を胸に当て、体内の音に注意深く耳を澄ませた。診断は明白だった。
「患者の症状と身体所見に基づき」
私は自信を持って告げた。
「これは胸膜炎を併発した肺炎であると考えられます。即時の抗感染治療を推奨します」
「冬木さん」
灰原景の声が、氷のように室内を切り裂いた。
「君の……状態が、臨床判断に影響を及ぼしているのではないかね。これは明らかに気管支炎だ」
実演室は墓場のように静まり返った。教授と学生の間で意見が食い違うことは珍しくないが、灰原景の口調に含まれる侮蔑の色は誰の目にも明らかだった。彼は私の診断に疑問を呈しているだけではない――私の能力そのものを疑っているのだ。
「教授、恐れながら、私の診断を支持いたします」
胸に燃え広がる屈辱を抑え、私は平静を保った声で返した。
「患者には肺の明らかな湿性ラ音と、聴取可能な胸膜摩擦音が認められます。これは単なる気管支炎より遥かに深刻です」
「冬木さん」
灰原景の口調はさらに見下したものになった。
「君の頑固さが、この患者の命を危険に晒しかねない」
見学ギャラリーからさざ波のように囁き声が広がった。
浅野先生が、突如席から立ち上がった。
「再度の診察が必要だと思われます」
高名な医師による徹底的な評価の後、その表情は険しいものとなった。
「灰原君、冬木さんの診断が正しいと指摘せざるを得ない。これは間違いなく、胸膜合併症を伴う肺炎だ」
灰原景の顔は真っ赤に染まったが、彼はすぐに平静を取り戻した。
「もちろんです、浅野先生。どうやら私は……評価を急ぎすぎたようです」
ー
実演が終わり、学生たちが興奮した様子でひそひそと話しながら退出していく中、私は意識して落ち着き払いながら医療器具を片付けた。
勝利の味は想像していたよりも甘美だったが、そこにはほろ苦い何かが混じっていた――かつて愛した男が、これほどまでに卑劣な残酷さを見せられる人間だったという現実だ。
「千紘」
戸口で、灰原景の声が私を呼び止めた。室内には私たち以外誰もいなくなり、臨床の空間は途端に息苦しく、言葉にされない緊張感に満ちた。
私はゆっくりと振り返り、無表情を装った。
「灰原教授」
彼は落ち着いた足取りで近づいてきた。そして一瞬、彼の表情に生々しい何かが垣間見えた――冷たい教授の仮面の下に隠された、かつて私が知っていた灰原景が。
「あれは……見事な診断だった」と彼は言った。
「そうですか?」
私は首を傾げ、先ほど患者に向けたのと同じ臨床的な冷静さで彼を観察した。
「私の『情緒不安定』についての先ほどの評価を考えれば、お気づきになったとは驚きですわ」
彼の顔に何かがよぎった――痛みか、あるいは後悔か。
「千紘、私は――」
「灰原先生」
私は鋭く訂正した。
「私たちは今や同僚です。それ以上でも、それ以下でもありません」
私は彼をかすめてドアへ向かったが、彼の手が私の手首を掴み、不本意な衝撃が全身を貫いた。
「こんなことを望んでいたわけじゃない」
彼は声を潜め、囁いた。
その声に含まれる痛みは本物で、後悔も偽りではなかった。だが、彼の腕の中にいた灰原琴音を、そして彼が先ほど企てた計算ずくの屈辱を思い出すと、私の決意は鋼のように硬化した。
「ええ」
私は彼の手を振りほどきながら同意した。
「あなたが望んだのは、あなたの秘密に決して疑問を抱かない、都合のいい妻だったのでしょう。あいにくでしたわね、あなたが選んだのが、骨のある女だったとは」
私は振り返ることなく歩き去ったが、一歩進むごとに、彼の視線が背中に焼き付くのを感じていた。
実演室の外で、私は危うく灰原琴音とぶつかりそうになった。どうやら彼女は廊下でうろついていたらしい。その甘い微笑みは、計算高い瞳までは届いていなかった。






