第1章

瑞穂視点

「どっちか選べ、小沢和孝」

 誘拐犯の銃口が、私のこめかみに食い込む。

「嫁か、それとも兄嫁か」

 鉛を流し込まれたように腹が重い。手首には縄が深く食い込んでいる。隣ですすり泣く美沙希と並べられ、私たちはまるで屠殺を待つ家畜のようだった。

 和孝は逆光の中に立っている。私はその姿を凝視した。

 腹の中では八ヶ月になる胎児が暴れている。彼が口を開くのを待っていた。私の夫であり、十年も密かに想い続けてきた男が、一度でいいから私を選んでくれるのを。

「美沙希を放せ」

 和孝の声には、何の感情の波もなかった。

 犯人が口元を歪め、笑う。次の瞬間、銃床が私の腹部に激しく叩きつけられた。

 激痛が炸裂したその瞬間、美沙希の縄が解かれる衣擦れの音を聞いた。彼女を庇うように去っていく和孝の足音も。ただ、彼が振り返る気配だけは、一度たりともなかった。

「なんであいつが選ばれたか分かるか?」

 犯人が私の髪を乱暴に掴む。

「小沢家の古い掟さ。先に生まれた方が次期当主になる。旦那の兄貴は去年、弟を庇って死んだ。その忘れ形見を残してな。兄貴の血筋を絶やすわけにゃいかねえだろ?」

 なるほど、そういうことか。

 私は奥歯を噛み締め、両手で必死に腹を庇った。拳が振り下ろされるたび、漏れそうになる悲鳴を喉の奥へと押し戻す。

 赤ちゃん、ママはここにいるよ。大丈夫だよ。

 監禁されて二日が過ぎた。警官隊が突入してきた時、どれだけ蹴られたかすでに数え切れなくなっていた。縄を解かれ、救急車を呼ぶかと聞かれる。

 私は首を振った。壁を伝って立ち上がり、一歩ずつ外へ出る。

 太腿の内側を液体が伝い落ちる。粘り気のある、生温かい感触。触れてみると、血ではない。

 羊水だ。

 震える手でスマホを取り出し、暗記している番号にかける。七回目のコールで、やっと彼が出た。

「生きていたのか」

 張り詰めた声だった。

「和孝」私は荒い息をつく。

「逃げ出したの。でも羊水が破れて、子供が……」

「美沙希がショックを受けて、陣痛が早まった」彼は私の言葉を遮った。

「いつ生まれてもおかしくないと医者が言っている。瑞穂、お前はなんでこんな時に」

 私は呆然とした。

「『こんな時』ってどういうこと? 私が破水をコントロールできるとでも?」

「先月、片目の角膜提供同意書にサインしただろう」彼の口調は平坦だ。

「理解していると言ったはずだ。兄貴は俺のために死んだ。目の見えない美沙希は生きていけないと」

「それは、あなたがこれから私を大切にしてくれるって言ったから……」爪が掌に食い込む。

「無駄話はやめろ。美沙希が産気づいている今、お前も産むと言うのか」和孝が鼻で笑う。

「随分な偶然だな。俺のベッドに潜り込んだ時も、偶然だと言い張っていたな」

 電話の向こうから、美沙希のか細い嗚咽が聞こえる。

「和孝さん、痛い……」

「ずっと傍にいるから」

 その声は一瞬で慈愛に満ちたものになり、私に向くと再び氷のように冷え切った。

「山崎に処理させる。余計な真似はするな」

 通話が切れた。

 私は電柱にすがりつき、えずいた。陣痛が万力のように子宮を締め上げる。間隔は五分おき。シャツの裾を裂いて股に詰め込み、屋敷の方角へと足を引きずり始めた。

 五キロメートルの道のりを、四時間かけて這うように進んだ。

 門の前には山崎が立っていた。

「小沢さんの言いつけです」彼は無表情だ。

「待っていただきます」

「待てって?」私は鉄格子の門を掴む。

「子供は待ってくれないわ! もう生まれるの!」

「天保さんもお産に入りました」山崎が目配せすると、護衛たちが私を取り押さえる。

「長子は彼女の子でなければならない。それが小沢さんの決めた『掟』です」

 地下室へと引きずられていく。階段は陰湿で、血と黴の臭いが混じり合っている。ここは和孝が裏切り者を尋問する場所だ。

「和孝は知ってるの!?」私はもがく。「約束してくれたのよ、角膜を提供すれば、やり直そうって……」

「小沢さんは天保さんにも身分を約束しているんですよ」山崎が冷笑する。

「妊娠すれば本妻になれるとでも? あなたのように手段を選ばず寝所に潜り込む女など、小沢さんは見飽きているんです」

 背後で鉄の扉が閉ざされ、拘束帯で手首と足首を固定される。

「看護師はまだか? 分娩抑制剤をすぐに持ってこい!」山崎がスマホに音声を吹き込む。

「和孝が私に出産を遅らせる薬を打てって言ったの? ありえない! 彼に殺されるわよ!」

「小沢さんご自身の命令です」山崎は薄ら笑いを浮かべる。

「天保さんが無事に出産するまで、あなたとそのガキは大人しくしてろとのことです」

 陣痛の間隔が縮まる。お腹の中で子供が狂ったように暴れ回り、私は獣のような咆哮を上げた。

「お願い」涙で顔をぐしゃぐしゃにして、私は山崎に懇願した。

「彼に電話して。本当に生まれるの、薬なんて効かないって伝えて……」

 山崎はスマホを取り出し、スピーカーモードにした。

「まだ騒いでいるのか?」

 疲労と苛立ちの滲む声。

「ボス、小沢奥様の様子がおかしいのですが」

「山崎」和孝が遮る。

「兄貴は俺のために死んだ。これが兄貴がこの世に残した唯一の子だ。俺の言いたいことは分かるな?」

 電話の向こうから、美沙希の弱々しいすすり泣きが聞こえる。

「私のせいね。私がもっとしっかりしていれば、こんな早くに……」

「お前のせいじゃない」和孝の声が優しくなり、再び冷酷な響きに戻る。

「予定通り進めろ。瑞穂の演技には騙されるな」

 山崎がスマホをしまうと、壁にかかっていた牛革の鞭を手に取った。ヒュッ、と空を切る音が響く。

「看護師はまだ来ないのか」

「小沢奥様」

 彼が私に歩み寄る。

「そういうことですので、まずは躾をさせていただきます」

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