第3章
【瑞穂視点】
大山は車のドアに背を預け、白いナースキャップを指先でくるくると弄んでいた。
「待ちくたびれたぜ、このネズミが」
彼はニヤリと笑い、黄ばんだ歯を剥き出しにする。
「さくらの小細工なんざ、とっくにお見通しだったんだよ」
踵を返して逃げようとした瞬間、激しい陣痛が腰を締め上げた。あまりの痛みに、私は草むらの上に崩れ落ちる。
大山が歩み寄り、私の髪を鷲掴みにする。
「ちょっと遊んでやっただけだ。これで完全に諦めがつくだろ」
そのまま私は引きずられていく。必死に土へ爪を立てるが、地面には十本の血の跡が残るだけだった。
地下室の扉は大きく開け放たれていた。中ではさくらが椅子に縛り付けられ、口にはガムテープ。左目は酷く腫れ上がり、細い線のように塞がっている。
「飼い犬の分際で裏切りやがって」
大山は私を放り出すと、さくらの顔面に拳を叩き込んだ。
ゴシャッ、と骨の砕ける鈍い音が響く。さくらの鼻から噴き出した鮮血が、拘束具を赤く染めた。
「やめて!」
悲鳴を上げて飛びかかろうとした私を、大山が無慈悲に蹴り飛ばす。下腹部に激痛が炸裂し、私はその場にうずくまって空嘔吐を繰り返した。
彼はさくらの髪を掴み上げ、その頭を何度も壁に打ち付けた。
「道具を渡したな! よくも俺たちの情報を漏らしやがったな!」
「私が悪いの!」私は泣き叫ぶ。
「打つなら私を打って!」
大山は手を止め、荒い息を吐きながら私を見下ろした。
「当たり前だ、テメェのせいに決まってんだろ」
彼はポケットから携帯電話を取り出す。
「だが、まずは旦那への報告が先だ」
通話が繋がり、スピーカーフォンに切り替えられる。
「どうなった?」
和孝の声の向こうで、病院の医療機器が発する電子音が微かに聞こえた。
「先生、小沢の奥方が逃げようとしましてね」大山が報告する。
「看護師を唆して手引きさせたようです」
電話の向こうで、三秒ほどの沈黙が流れた。
「やはりな」
和孝が冷ややかに笑う。
「どうせ小賢しい真似をすると思っていたよ。注射は打ったか?」
「一本目は。ですが二本目が必要なのに、この看護師が抵抗しやがりまして」
「無理やり打たせろ」
その声は氷のように冷徹だった。
「美沙希のほうは子宮口が五センチ開いている。瑞穂のガキを絶対に先に産ませるな。いいな?」
「ですが先生、小沢の奥方は本当にそろそろ――」
「大山」
和孝が言葉を遮る。
「最後にもう一度だけ言うぞ。計画通りに進めろ。あの女は演技に関しては天才的だからな」
そこで通話は切れた。
大山は携帯をしまうと、医療ケースから注射器を取り出した。さくらの前まで歩み寄り、口元のガムテープを乱暴に剥がす。
「打て。今すぐにだ」
さくらは大山の顔に血の混じった唾を吐きかけた。
「このクズども……っ! 妊婦相手によくもこんな非道な真似ができるわね!」
大山の顔が瞬時に歪み、目が細められる。顔にかかった血を拭い去ると、彼は荒い息を吐き出した。
「あぁ? 何だと?」
手は震えていたが、さくらは退かなかった。顔を上げ、真っ直ぐに大山を見据える。
「あんたたち、ただで済むと思わないで。あの子に……あの子に罪はないのよ」
大山は鼻で笑うと、一歩下がって腰から拳銃を抜いた。
「随分と威勢のいいナース様だな。自分が悲劇のヒロインにでもなったつもりか?」
銃口が、さくらの額に向けられる。
さくらの顔から血の気が引いていく。それでも彼女は命乞いしなかった。ただ静かに瞳を閉じ、呟く。
「ごめんなさい……私、精一杯やったわ……」
心臓が早鐘を打ち、叫ぼうとしても声にならない。地下室の空気が凍りつき、血の匂いが濃くなる。
轟音が、コンクリートの壁に反響した。
耳鳴りが止まない。さくらの体が背後へ仰け反り、その額には黒い穴が穿たれていた。
私の頬に血が飛んでくる。生温かい、誰かの命の温度。
彼女の目を見つめる。さっきまで迷いや慈悲を宿して揺れていた瞳は、今はもう、何も映していない虚ろな硝子玉になっていた。
大山は手に付いた血を服で拭った。
「めんどくせぇな」
そう悪態をつき、落ちた注射器を拾って私に歩み寄ってくる。
私は後ずさり、背中が冷たい壁に当たった。
「お願い、赤ちゃんが……もう本当に……」
「知ったことかよ」
私の腕が掴まれる。
針が皮膚を突き破ったその瞬間、お腹の中の子の呼吸が止まったような気がした。
大山は針を抜き、私の頬を軽く叩いた。
「六時間後にまた来る。美沙希さんが早く産気づくよう祈っとくんだな」
彼は去っていき、鉄の扉が再び施錠される。
私は這ってさくらの側へ行った。溢れ出た血が私の膝を濡らす。冷たくなった彼女の手を握りしめた。
「ごめんね……」声が掠れる。「ごめんなさい……」
また陣痛が来た。だが今回は微弱で、まるで引き潮のようだった。お腹の子は、もうほとんど動かない。
地下室の電灯が明滅している。太腿の内側を何かが伝い落ちていく。羊水じゃない、これは血だ。
瞼を閉じる。暗闇の中に、兄の顔が浮かんだ。もしお兄ちゃんが、今の私を見たら……。
呼吸が浅くなっていく。自分の命が尽きようとしているのがわかった。
鉄扉の外から慌ただしい足音が聞こえる。
バンッ、と扉が乱暴に開かれた。飛び込んできた大山の顔は真っ青だ。震える手で携帯電話を操作している。
「先生!」彼は怒鳴るように叫ぶ。
「大変です! 小沢の奥方が……出血が止まりません!」
電話の向こうから、赤ん坊の泣き声が聞こえた。元気で、健康そうな産声。
そして和孝の声が響く。
「また演技か?」
「演技じゃねえ!」大山が吠える。
「本当にヤバいんだよ! 医者を! 早く医者を呼んでくれ!」
「大山」
和孝の声は、恐ろしいほど冷静だった。
「美沙希が産んだぞ。男の子だ」
私は笑った。口の端から血が零れ落ちる。
「だから」和孝は続ける。
「もう瑞穂を連れてきてもいいぞ」
(もう遅いよ、和孝)
大山が慌てて私を抱き上げる。でも、もう無駄だった。その瞬間、私の瞳は光を失い閉ざされたから。
暗闇に飲み込まれる寸前、私は最後にお腹を撫でた。
「ごめんね、赤ちゃん……」
最期の力を振り絞って呟く。
「ママ、あなたに……お日様を見せてあげられなかった……」
【和孝視点】
美沙希の出産を終え、私は分娩室へ駆けつけて新生児を抱き上げた。
「君にそっくりだ。本当に綺麗な顔をしている」
そこでふと動きを止め、奇妙な考えが脳裏をよぎる。
瑞穂の子は、どんな顔をしているだろうか。
もし女の子なら、あいつに似ているかもしれない。
だとしたら、きっとこの子以上に美しいはずだ。
半日が過ぎた。子供を寝かしつけた後も、私は不思議に思っていた。なぜ大山はまだ瑞穂を病院に連れてこないのか。
その時、部下の山崎が血相を変えて飛び込んできた。声が酷く震えている。
「お、小沢の奥様が……あの方とお腹のお子様、お二人とも亡くなっていました……! 昼寝の後、地下室へ様子を見に行って発見したんです。大山の奴……先生に殺されると怯えて、逃亡しました……」
