第4章
「なんだと?」
俺はそいつの胸倉を掴み上げた。
「もう一度言ってみろ」
「遺体が地下室に……出血がひどく……子供は、駄目でした」
部下は俺の目を見ようともしない。
俺は手を離すと、そのまま外へ飛び出し、車に乗り込んだ。アクセルを床まで踏み込む。メーターの針は跳ね上がり、時速二〇〇キロを振り切ろうとしていた。
あり得ない。
あいつは演技が上手いんだ。
また俺を騙そうとしているに決まっている。
地下室の鉄扉が開け放たれていた。鼻をつく強烈な血臭に、胃液がせり上がってくる。
コンクリートの床に、瑞穂が倒れていた。下半身には赤黒い血だまりが広がっている。腹部は隆起したままだが、ぴくりとも動かない。
俺は膝から崩れ落ち、彼女の首筋に触れた。氷のように冷たい。
「瑞穂」
俺は彼女の頬を叩いた。
「起きろ」
反応がない。
襟元を寛げ、指を頸動脈に押し当てる。脈がない。
「瑞穂!」
俺は吠えた。怒号が地下室の壁に反響する。
「いい加減に起きやがれ! 冗談じゃ済まねえぞ!」
抱き上げる。恐ろしいほど軽い。口角から溢れた血が、俺の袖に滴り落ちた。
「医者だ!」
俺は扉の外に向かって怒鳴った。
「医者を呼べ!」
入り口には山崎が立ち尽くし、顔面蒼白になっていた。
「小沢さん……奥様はもう……」
「呼べと言ってるんだ!」
「小沢さん、どうか安らかに眠らせてあげましょう」
古株の使用人が小声で言った。
俺は近くにあったパイプ椅子を蹴り飛ばした。
「死んでねえ! あいつが勝手に死ぬわけがねえんだよ!」
俺は彼女を強く抱きしめ、その額に自分の顔を押し付けた。石のように冷え切っている。
「俺への復讐か? ああ、そうかい、お前の勝ちだ。俺の負けだ。目を開けろ。全部やる。組も、跡目も、何もかもお前のモンだ」
彼女は目を開けない。
喉が張り詰め、何かが内側で砕け散る音がした。俺は彼女を抱いたまま歩き出した。外では雨が降り始めていた。
山崎が追いかけてくる。
「小沢さん、雨が激しいです。まずは奥様を中へ……」
「失せろ」
俺は彼女を助手席に乗せ、シートベルトを締めた。いつも出かける時のように。
山崎が血相を変えて飛び出してくる。
「小沢さん! それは……っ」
俺はドアを閉め、エンジンを唸らせた。
屋敷へ戻る道中、俺はずっと彼女に話しかけていた。
「子供は、お前に似てるといいな」
前を見据えながら、独り言ちる。
「目元はお前似で、笑うとえくぼができるんだ」
「ピアノはお前が教えてやれ。上手かっただろ、お前」
主寝室へ連れ帰り、俺たちのベッドに寝かせた。
お湯を用意し、タオルを絞って、彼女の顔についた血を拭う。額、瞼、鼻先、唇。丁寧に、丁寧に拭き取っていく。
顎まで拭いた時、首に残る索条痕が目に入った。深く食い込み、紫黒色に変色している。
俺は震える指でその傷をなぞった。
「誰がやった?」
誰も答えない。
ドアが静かに開いた。赤ん坊を抱いた美沙希が立っていた。目は泣き腫らして赤い。
「和孝……」
猫なで声が鼓膜を打つ。
「瑞穂さんのこと、聞いたわ……残念だったわね」
俺は振り返らなかった。
彼女は近づいてくると、赤ん坊をベッドの足元に置いた。
「辛いのはわかるわ。でも、生きなきゃ」
美沙希の手が俺の肩に触れる。
「私がついてる。あの子は……あなたをパパって呼べるのよ。私たちは幸せな三人家族になれる。次は私が、あなたのために本当の跡継ぎを産んであげる」
俺はその手を乱暴に振り払った。
「出て行け」
美沙希が呆気にとられる。
「え?」
「失せろと言ったんだ」
俺は立ち上がり、彼女を睨みつけた。
「俺がお前に優しくしたのは、兄貴の顔を立てたからだ。それだけだ」
彼女の顔から血の気が引いていく。
「じゃあどうして……どうしてずっと私の面倒を見てくれたの? どうしてあの女じゃなくて、私を選んだの?」
「兄貴は俺のために死んだ。これは俺の借金だ。だがお前に対しては、もう仁義は尽くした」
「でも愛してないじゃない!」
美沙希が金切り声を上げた。
「誰が見たってそうよ! あんな酷い扱いをして! 監禁して、ドナー同意書にサインさせて、出産だって待たせて……!」
俺は息を呑んだ。
全員に、そう見えていたのか。
俺は、彼女に酷いことをしていたのか。
俺はずっと、それは厳しさだと思っていた。守るためだと。それが……『掟』なのだと。
美沙希は泣きながら走り去った。残された赤ん坊が泣き声を上げている。
俺はゆっくりとベッドサイドに座り直し、瑞穂の冷たい手を握りしめた。
「俺は、本当に……」
喉が詰まる。
「そんなに酷かったか?」
彼女は答えない。当然だ、もう答えられるはずがない。
「怖かっただけだ」
俺は頭を垂れ、彼女の手の甲に額を押し当てた。
「他の有象無象と同じで、お前も小沢の名だけが目当てなんじゃないかって、怖かった」
「だから証明させようとしたんだ」
声が震え始めた。涙が彼女の手の背に落ちる。十年、泣いたことなどなかったのに。
「俺が間違ってた、そうだろ?」
握った手に力を込める。
「今すぐ改める。だから起きろ、全部直すから。子供の教育はお前がやれ。外出も付き合う。チャカ向けてくる奴がいたら、俺が盾になる」
「頼む」
指先に口づけを落とす。
「起きて罵ってくれ。殴ってくれ。何だっていい」
窓の外が暗くなっていく。俺は彼女を抱いたまま、一晩中動かなかった。
夜が明けた頃、山崎がまたドアをノックした。
「小沢さん、埋葬の準備を。遺体が腐敗してしまいます」
「出て行け」
「小沢さん!」
「出て行けと言ってるんだ!」
瑞穂視点
目を開けた時、視界に入ったのは雪のように白い天井だった。
私は弾かれたように上半身を起こし、腹部に手をやった。
平らだ。
「赤ちゃん……」
声が掠れる。
「私の赤ちゃんは?」
顔を向けると、ベッド脇の椅子に兄の智志が座っていた。
「智志……?」
私は呆然とした。
「どうしてここに……」
「チップだ」
兄はカップを置くと、私の鎖骨の下あたりを指差した。
「お前がどうしても小沢和孝に嫁ぐって言い張った時、こうなる予感がしてな。埋め込み式のバイタルモニターだ。瀕死の状態になると自動で信号を発する」
彼は立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。
「警報が鳴った時、お前は地下室にいた。心拍数は毎分二十。うちの連中が踏み込んだ時には、もう虫の息だった」
兄は言葉を切り、強張った背中を見せた。
「ダミーの遺体を用意させた。数日は腐敗しない精巧な作りだ。奴を欺くには十分だろう」
私は顔を覆った。指の隙間から涙が溢れ出す。
「ごめんなさい……」
嗚咽が漏れる。
「お兄ちゃんの言うこと聞かなくて……私が馬鹿だった……本当に、ごめんなさい……」
智志が戻ってきて、私を抱きしめた。私を壊してしまいそうなほど、強い力で。
「馬鹿な妹だ」
兄の声も震えていた。
「もっと早く、無理にでも連れ戻すべきだったな」
私は長い間泣き続けた。力が尽きるまで、声が枯れるまで。
そして、ふと思い出した。
「私の子供……」
私は智志の袖を掴んだ。
「あの子は……どうなったの? どこにいるの?」
