第2章
考えるまでもなかった。メッセージの差出人が誰かなど、空見灯には痛いほど分かっていた。その表情が、一瞬にして曇る。
スマホの画面を見つめたまま微動だにしない彼女を見て、唐沢雪優が指でつついた。
「何考えてんの?」
「ううん、何でもない」
空見灯は我に返ったが、食欲は完全に失せていた。
桐谷家の力を知っていれば、桐谷憂がその気になれば逃げ場などないことは明白だ。
このまま逃げ続けるのは得策ではない。会社の買収はおそらく、桐谷憂からの警告――いわゆる「下馬評」代わりなのだろう。
「ねえ、昨日は何してたの? 電話にも出ないし、心配したんだから!」
唐沢雪優は、昨日の篠原流輝の結婚式で一体何があったのか、好奇心を隠せない様子だ。
空見灯は口を開きかけたが、十数秒の沈黙の後、観念したように言った。
「飲みすぎて……ワンナイトしちゃった」
「はあ? 何だって? 篠原流輝とあんなに長く付き合っててキスすらしなかったあんたが、昨日男と寝たって言うの?」
唐沢雪優の美しい杏仁形の目が驚愕で見開かれ、声の大きさに周囲の客が振り返る。
「声が大きいって!」
空見灯は気まずそうに俯き、顔を赤らめた。
「誰と寝たの? 顔は見た?」
唐沢雪優は声を潜め、早口で問い詰める。
「桐谷憂……」空見灯は長く息を吐いた。「それに、彼のダイヤモンドのカフスボタンをなくしちゃって……」
彼は弁償しろと言っている。
「なんですって!!」
唐沢雪優の声が再び裏返り、すぐにまた声を潜めた。
「昨夜寝たのが桐谷家の跡取り、あの桐谷憂だって言うの?」
空見灯は諦めたように頷いた。
「篠原流輝の宿敵じゃない! あんた……嘘でしょ! 噂をすれば影!」
唐沢雪優が突然、狂ったように目配せをしてきた。
空見灯の血液が瞬時に凝固した。金縛りにあったように背筋を伸ばし、振り返る勇気がない。あの男と目が合うのが怖かった。
「空見さん、奇遇だな」
空見灯が振り返るまでもなく、男はまっすぐ彼女のそばに来ていた。
まるで火炙りにされているような気分だ。彼女は恐る恐る振り返り、気まずそうに桐谷憂を見た。
「ぐ、偶然ですね!」
唐沢雪優はまさか、こんな特大の修羅場に居合わせるとは思ってもみなかった。
空見灯の顔色は最悪だ。
「わざわざ探しに来たんだ」
桐谷憂は優雅な動作で空見灯の向かいに座った。
メッセージを無視したから、直接乗り込んできたということか。
空見灯は彼の目を見ることができないが、彼の視線がずっと自分の顔に固定されているのを感じていた。
彼女の緊張を感じ取り、唐沢雪優がそっと手を握り、耳元で囁いた。
「長いものには巻かれろよ。お金で解決できるなら謝って払っちゃおう。私のお小遣い全部あげるから」
突然、向かいの男が鼻で笑った。
「唐沢家の令嬢は、俺が君の小遣いに困っているとでも?」
唐沢雪優の手が一瞬で冷たくなり、息を呑んだ。
唐沢家は確かに金持ちだが、桐谷憂の前では塵のようなものだ。
男の嘲笑混じりの口調を感じながらも、唐沢雪優は勇気を振り絞って彼を見た。
「桐谷社長、灯がカフスボタンをなくしたのは確かに悪かったですけど……」
「事情通だな」
桐谷憂が無表情に言うと、向かい合う二人の少女が握り合う手に力がこもった。
強烈な威圧感に、空見灯は頭皮が痺れるような感覚を覚えた。
それでも彼女は唐沢雪優に微笑みかけた。
「先に帰ってて。桐谷社長と二人で話があるから」
唐沢雪優は激しく首を振ったが、空見灯は笑って彼女の手を叩いた。
「ここは公共の場だし、桐谷社長は紳士だから、私に何もしないわよ」
桐谷憂は口角を上げ、唐沢雪優に「どうぞ」と促すジェスチャーをした。
空見灯は唐沢雪優を押した。
「電話するから」
唐沢雪優は歯噛みしながら立ち上がり、わざと大きな声で言った。
「わかった。じゃあ夜の集まり忘れないでよ。警察官の従姉妹も今日来るんだから」
空見灯は頷いたが、心の中で溜息をついた。桐谷憂が警察を怖がるわけがない。
「昨日の件、考えはまとまったか?」
唐沢雪優が去ると、桐谷憂は単刀直入に切り出した。
祖父の病状は待ってくれない。彼を安心させるために、早急に結婚相手を見つけなければならない。
そして今、空見灯は最も適した人物だった。調査の結果、彼女の身元は潔白で、乱れた私生活もない。
昨夜試した通り、彼女は……清らかだった。
「桐谷社長、カフスボタンをなくしてしまったことは本当に申し訳ありません。お互いが納得できる賠償方法を話し合えませんか?」
短い時間で、空見灯が考えついた唯一の解決策だった。
「金でか? ダイヤは大したことない、たかだか五カラットだ。だが、あのカフスはデザイナーのクロリスが手掛けたものだ。空見さん、いくらが妥当だと思う?」
その一言に空見灯は言葉を詰まらせた。クロリスのデザインはプライスレス、金で測れるものではなく、縁のある者にしか売らないことで有名だ。
彼女は知っていた。そのデザイナーはこの二十数年のキャリアの中で、年に二点しか商品を売らない。今年そのうちの一点が桐谷憂のカフスボタンだったのだ。
彼女は目を閉じ、現実を直視した――弁償など不可能だ。
だが弁償しなければ、この男の手段なら彼女を百回殺すことだってできるだろう。
「桐谷社長は、私の過去を気にしないんですか?」
どちらに転んでも地獄ならと、空見灯は覚悟を決めて尋ねた。
「俺に関係あるか?」
桐谷憂は冷淡に言い放った。感情など微塵もない。
初めてを捧げた相手は彼だ。この女の過去など、どうでもいい。
「一晩猶予をやる。カフスボタンが見つからなければ、明日の朝八時半、市役所に来い」
桐谷憂はそう言い残して席を立った。
今日ここに来たのは祖父への言い訳を作るためだけであり、長居するつもりはなかった。
レストランを出るなり、祖父から電話がかかってきた。
「どうだ? いつ連れてきてくれるんだ?」
「ご安心を。必ず会わせますよ」
桐谷憂は適当に答えた。
「わしには時間がない。死ぬ前にお前の結婚を見届けたいだけなんじゃ。そうすれば安心して逝ける」
受話器の向こうから、桐谷老人の弱々しい声が聞こえてくる。
桐谷憂は複雑な表情を浮かべ、最後には淡々と「ああ」とだけ答えた。
翌朝、空見灯が到着した時、ちょうど桐谷憂も車から降りてくるところだった。
「入るぞ」
彼は空見灯の出現に驚く様子もなく、そう言って背を向け市役所へと入っていった。空見灯もその後ろに続き、特別な手続きルートを通った。
昨夜一晩中考えたが、最初から解決策はこれ一つしかなかったのだ。
なぜ桐谷憂が自分を選んだのか、繰り返し考えた。家柄も容姿も、桐谷憂が特別視するような要素は何もない。
あの一夜の過ち以外には。
もしかしたら彼が自分自身を気に入ったのかとも考えたが、すぐにその考えを捨てた。それまで面識もなかったのに、一目惚れなどあるはずがない。
空見灯は自分自身を客観的に理解している。そんな魅力はないし、桐谷憂を拒絶する力もない。
結局、彼女は運命を受け入れ、早めに市役所に来たのだ。
桐谷憂が飽きれば、自然と解放してくれるだろう。
結婚の手続きはすべて順調に進み、署名以外、空見灯は何もしなくてよかった。
結婚証明書が手渡された時、空見灯はようやく実感した。結婚したのだ、ワンナイトの相手と。
「俺たちのことをあまり多くの人に知られたくない」
桐谷憂はその言葉を投げ捨てて去っていった。
空見灯は結婚証明書を握りしめ、呆然としていた。
桐谷憂が結婚を隠したがるのは、きっと遊びだからだろう。
もしかしたら気まぐれで、適当な女と結婚してすぐ離婚するつもりなのかもしれない。そうすれば自由になれる。
市役所を出て、空見灯はそのまま会社へ向かった。
会社の入り口に着いた途端、母から電話がかかってきた。
「空見灯、外に隠れていれば済むと思ったら大間違いよ。さっさと戻って大人しく結婚しないなら、会社に乗り込んで暴れてやるから!」
