第三章
「あんな年寄りと結婚させて、弟の結婚資金にしろだなんて、私の気持ちを考えたことあるの?」空見灯の声は冷え切っていた。
家族は彼女が篠原流輝と別れたと知るや否や、見合い結婚を強要してきた。
弟の家の頭金と嫁をもらう金を作るためだ。
だが紹介される相手はろくでもない男ばかり。子持ちのバツイチか、障害があるか、あるいは父親ほどの年齢の男か……。
「誰がここまで育ててやったと思ってるんだ! これが親孝行ってもんだろ! 今夜必ず帰ってきて結婚の話を進めるのよ! さもないと会社に押しかけるからね!」
母の憎々しげな声に、空見灯は深呼吸をした。「結婚したわ」
「結婚? 誰と? 嘘つくんじゃないよ! 今夜あんたのところに行くからね! 外で羽伸ばして調子に乗ってると、ぶち殺すよ!」
「信じないなら勝手にして」空見灯は力任せに電話を切り、重い溜息をついた。一時的に逃げられても、一生は逃げられない。いつかは向き合わなければならない問題だ。
幸い結婚はした。これ以上、見合いを強要されることはないはずだ。
だが、桐谷憂から結婚を口外するなと釘を刺されたことを思い出し、衝動的に言ってしまったことを後悔した。
どう処理すべきか思案していると、桐谷憂が黒のオーダーメイドスーツに身を包み、こちらへ歩いてくるのが見えた。
彼の後ろには数人の取り巻きがおり、左側には秘書、右側には空見灯の上司がいた。
今日は桐谷憂が正式に会社を買収する日だ。
桐谷憂と空見灯の目が合ったが、そこに感情の波はなく、空見灯はすぐに視線を逸らして他人のふりをした。
だが彼女の心に一つの案が浮かんだ――桐谷憂を家族に会わせればいいのでは?
「灯さん、桐谷社長がお呼びだ。しっかりやれよ!」思考は社長の一言で遮られた。
「はい」空見灯は返事をし、社長室へと向かった。
社長は眉を上げた。桐谷憂が空見灯を指名したということは、気があるのかもしれない。
この件でうまく立ち回れば、自分にも多くの利益があるかもしれない。
オフィスにて。
「桐谷社長」空見灯は恭しく口を開いた。まるで二人が初対面であるかのように。
桐谷憂はスマホを差し出した。画面にはLINEのQRコードが表示されている。「連絡先を知らない。今夜、俺の実家に食事に来い」
「実家に食事?」空見灯は立ち尽くした。心境は複雑だ。もう親への挨拶?
桐谷憂は苛立ったように舌打ちをし、空見灯は慌ててスマホを取り出し彼を登録した。
「しっかり準備しろ」桐谷憂の口調は淡々としており、真意が読めない。
空見灯は困惑した。さっきは結婚を知られたくないと言っていたのに、今度は実家に連れて行くと言う。
つまり、家族にだけは結婚を知らせるということか?
空見灯は安堵した。どうやって桐谷憂に頼もうか考えていた矢先、向こうから提案してくれたのだ。
「あの、あなたの実家に行った後、私の実家にも食事に来ていただけませんか? 家族が私の結婚を信じてくれなくて、まだ見合いをさせようとするんです。お願いします」空見灯は恐る恐る切り出した。
桐谷憂はどんな身分か? 彼女の実家になど行ってくれるだろうか?
「あの、もしご都合が悪ければ結構ですので」男がなかなか答えないので、空見灯は付け加えた。
桐谷家と彼女の家では本質的に住む世界が違う。桐谷憂にとって家族は自分の家族だけであり、空見家と深く関わるつもりなどないのかもしれない。
やはり厚かましいお願いだった。
「いいだろう」桐谷憂の薄い唇が開き、淡々と短い言葉が紡がれた。
「本当ですか? 安心してください、時間は取らせませんから」空見灯は目を輝かせ、早口で言った。
桐谷憂はわずかに頷いた。「仕事が終わったら待ってろ」
空見灯は何度も頷いた。
終業後、すぐに桐谷憂から地下駐車場に来るようLINEが入った。
急いで駐車場へ向かうと、エレベーターホールの前に停まるマイバッハが目に入った。
「乗れ」桐谷憂が窓を開け、冷ややかに言った。
空見灯は慌てて乗り込んだ。
道中、二人は申し合わせたように無言だった。
桐谷憂はずっと書類に目を通しており、空見灯は窓の外を流れる建物や風景を眺めながら、不安な気持ちを抱えていた。
名家にはどんなしきたりがあるのだろう。豪門ならではの奇妙なルールや事件の話は嫌というほど聞いてきた。
篠原流輝と付き合っていた頃、彼が何度も愚痴をこぼしていたせいで、トラウマになりかけている。
空見灯は深呼吸をして、なんとか心を落ち着かせた。
桐谷家に行ったら、余計なことは言わず、ミスをしない。それだけを徹底しよう。
そうすれば、桐谷憂も自分の実家に来て両親への対応をしてくれるはずだ。持ちつ持たれつだ。
一時間後、黒のマイバッハは山の中腹にある別荘の前で静かに停止した。
ここは桐谷老人が静養のために購入した別荘で、山の中腹にあり、周囲は静寂に包まれ、俗世を離れた隠れ家のような趣があった。
車を降りた空見灯が最初に感じたのは、清々しさだった。都会の喧騒から離れ、静かでリラックスできる場所に来たことで、彼女は新鮮な空気を何度も深く吸い込み、緊張を和らげようとした。
桐谷憂がすでに別荘に入っていくのを見て、彼女は急いで後を追った。使用人が出迎え、「桐谷様、大旦那様が食堂でお待ちです」と告げた。
桐谷憂は何も言わず、ただ淡々と頷いた。
なぜか、空見灯は別荘に入った瞬間、圧迫感を覚えた。この屋敷には生気がなく、死のような静けさが漂っている気がした。
こんなに大きな家なのにガランとしていて、人の気配も少ない。食堂に着くと、食事をするのは彼女と桐谷憂、そして白い髭の老人だけだった。
「お前さんが憂の嫁か? わしは祖父じゃ」老人は空見灯を見て親しげに話しかけたが、二言三言話しただけで激しく咳き込んだ。
空見灯は反射的に駆け寄り、水を注いで背中を優しくさすった。
老人の咳が落ち着くのを見て、彼女は笑顔で言った。「お祖父様、初めまして。空見灯と申します」
「うむ、いい子じゃ。さあ、食べなさい」老人は空見灯をじっくりと見定め、満足そうに頷いた。
桐谷家の夕食は豪華だったが、老人は数口食べただけで箸を置いた。
空見灯もすぐに満腹だと言い、その後しばらく老人の囲碁の相手をした。
彼女は忍耐強く、囲碁の腕も悪くなかったため、老人との会話は弾んだ。
桐谷老人は明らかに体力が衰えていたが、終始笑顔で彼女と話し、身に纏っていた死の気配もようやく薄らいだようだった。
桐谷憂はずっと無言で、ただ二人を静かに見つめていた。
祖父の癌が悪化して以来、これほど嬉しそうな姿を見るのは初めてだった。
彼の言った通り、桐谷憂が結婚した姿を見れば、本当に安心して逝けるのだろう。
桐谷憂は瞳の奥の感情を隠すように伏し目がちになり、傍らで書類仕事を続けた。
桐谷老人は孫を一瞥し、呆れたように首を振った。「灯や、これからは憂と仲良く暮らすんじゃよ。あいつは顔こそ怖いが、根はいい奴じゃ。もしあいつがいじめでもしたら、わしに言うんじゃぞ。わしが懲らしめてやる!」
老人はそう言いながら再び激しく咳き込んだ。全身がさらに衰弱し、顔から血の気が完全に引いて、息遣いさえも弱々しくなっていった。
