第四章
「お祖父様、大丈夫ですか?」
空見灯は必死に背中をさすったが、桐谷老人の咳は激しさを増すばかりだ。
やがてその声は唐突に途切れ、糸が切れたように直立不動のまま倒れ込んだ。
「爺さん!」
桐谷憂は空見灯を突き飛ばし、そのまま老人を抱きかかえて二階へと駆け出した。
「医者を呼べ!」
彼の鋭い指示が飛ぶや否や、誰かが慌ただしく駆け出していった。
空見灯もお祖父様の身を案じ、急いでその背中を追って部屋に入った。
そして、目の前の光景に絶句した。
あらゆる医療機器が完備され、数人の看護師らしき人々が点滴の準備をしている。
そこは寝室というより、まるで集中治療室(ICU)そのものだった。
医師もすぐに駆けつけてきた。
「桐谷社長、申し訳ありませんが外へ」
「頼む」
桐谷憂の声は震えを押し殺しているようだった。
呆然と立ち尽くす空見灯を見て、桐谷憂は苛立ちを隠さず、彼女の腕を掴んで強引に外へ引きずり出した。
バン!
扉が力任せに閉められ、空見灯はようやく我に返った。
「お祖父様は……?」
「末期癌だ」
桐谷憂は感情のかけらもなく答えたが、空見灯の腕を掴む手には力がこもっていた。
「痛いです」
空見灯が涙声で訴える。
桐谷憂はようやく手を離し、目の前の女を見つめた。二人のワンナイトを思い出す。
「痛いです」――あの時も彼女はそう言った。
少し、か弱く、甘えるように。
桐谷憂は視線を外し、寝室のドアを冷ややかに見つめた。
空見灯は心配そうに両手を合わせ、心の中でお祖父様の回復を祈った。末期癌が死と同義であることを知っていながら。
大学時代、学費を出してもらえなかった彼女は病院で介護のアルバイトをしていた。癌患者の最期の日々がいかに過酷かを知っている。
金があろうとなかろうと、死に瀕した人間の苦しみと絶望的な足掻きは同じだ。
過去の記憶が蘇り、空見灯は急に息苦しくなった。
廊下の突き当たりで空気を吸おうとしたその時、桐谷憂が冷酷に言い放った。
「お前はただ俺の妻として、爺さんの最期の時間を共に過ごせばいい。金はやる。一生遊んで暮らせるだけの額をな」
空見灯はその場で固まり、やがて頷いた。
わかっていた。名門の御曹司に愛されるなんて展開、私のような女に起こるはずがない。
唯一誇れるものといえば、まあまあ整ったこの顔と、仕事への根性くらいだ。
だがその二つとも、桐谷憂にとっては加点要素にならない。
彼の周りに美女などいくらでもいるし、美男子だって多いだろう。
仕事熱心な人間だって、桐谷グループの周りはそんな人間ばかりだ。努力しない者は淘汰される。桐谷憂が穀潰しを養うはずがない。
では、なぜ桐谷憂は彼女を選んだのか?
空見灯はカッと目を見開いた。かつて読んだ恋愛小説やドラマの筋書きが脳裏に浮かぶ。
彼女の唯一のアドバンテージ、それは――初めてを桐谷憂に捧げたこと。
ふと思い至った。桐谷家のような高貴な血筋は、遺伝子の不純物を一切許さないのではないか。
まさか桐谷憂は、彼女の子宮に目をつけたのか?
空見灯は反射的に時間を確認した。桐谷憂との情事から、すでに二十四時間以上が経過している。
空見灯はこの方面の経験がなく、避妊薬がいつまで有効なのか全く知らなかった。
もし桐谷憂が狂気の沙汰で、お祖父様が生きているうちに曾孫を見せようとしているとしたら?
つまり私は桐谷家のために子供を産み、最後には捨てられる運命なのか?
最悪の場合、お祖父様が息を引き取る前に帝王切開で子供を取り出すなんてことになりかねない。想像しただけで頭皮が粟立った。
桐谷憂なら、やりかねない。
空見灯はスマホを取り出し、近くの薬局を急いで検索した。最寄りの店までここから五十キロ。空見灯は桐谷憂を見た。
「何か?」
視線を感じ、桐谷憂が冷ややかに振り返る。
空見灯は気まずそうに尋ねた。
「運転手さんに、先に送ってもらえませんか?」
桐谷憂は心の中で冷笑した。
さっきまで爺さんと親しげに話していたくせに、昏睡した途端に化けの皮が剥がれたか?
桐谷憂は彼女を見ようともせず、一言だけ投げ捨てた。
「帰りたければ勝手に失せろ」
桐谷憂の怒りを感じ、空見灯はそれ以上何も言えず、スマホで「七十二時間以内の避妊薬 効果」を必死に検索し始めた。
桐谷憂は横目で彼女が必死にスマホに入力する姿を見て、この女が以前、篠原流輝の恋人だったことを思い出し、すぐに視線を戻した。
誰の恋人だったかなど関係ない。爺さんが気に入ってくれればそれでいい。
爺さんが亡くなれば、彼女も用済みだ。
三日以内の服用なら効果がある薬が存在することを確認し、空見灯はようやく安堵の息を吐いた。
彼女は老人の寝室のドアの前に立ち、処置が終わるのを待った。
三十分後、医師が汗だくで出てきた。
「桐谷社長、一命は取り留めました。ですが今後は絶対安静です。長時間座らせないように」
桐谷憂が空見灯を一瞥すると、空見灯は目を丸くした。まさか私のせい?
囲碁に誘ったのはお祖父様だし、末期癌だなんて知らなかったのに。
「灯?」
桐谷老人の声が聞こえ、空見灯は急いで中に入り、ベッドサイドに膝をついて老人の手を握りしめた。
「お祖父様、ここにいますよ。大丈夫ですか? どこか痛くないですか?」
酸素マスクをつけ、息も絶え絶えな老人の姿を見て、空見灯は思わず目頭を熱くした。
「泣くな、灯。わしは大丈夫じゃ」
桐谷老人は愛おしそうに彼女の手を叩いた。空見灯は顔を背け、目尻の涙を拭った。
桐谷憂は入り口でその様子を冷ややかに見ていた。この女は本当に演技がうまい。芸能マネージャーにしておくには惜しい人材だ。
桐谷老人の体調は芳しくなく、少し話すとまた眠ってしまった。
空見灯は邪魔をしないよう、急いで部屋を出た。
「行くぞ。送ってやる」
桐谷憂は背を向け、空見灯を見もせずに階段を降りていった。
空見灯は少しムッとしたが、数ヶ月で離婚できるかもしれないし、しばらくは桐谷憂が盾になってくれると考え、気を取り直した。
道中、桐谷憂はずっと無言で、顔色は恐ろしいほど暗かった。
空見灯の家の近くまで来た時、彼女は慌てて言った。
「止めてください。薬局の前でいいです。あとは歩きますから」
運転手の暁天馬が桐谷憂をチラリと見ると、彼がわずかに頷いたので車を停めた。
空見灯は小走りで薬局へ向かった。暁天馬が小声で言った。
「空見さん、顔色が悪いですね。病気でしょうか?」
桐谷憂は少し考え、苛立ちながらドアを開けた。
爺さんを慰めるにはあの女が必要だ。今は空見灯の健康を完全に保証し、爺さんの治療に影響が出ないようにしなければならない。
その頃、空見灯は息を切らして店員に尋ねていた。
「七十二時間以内に飲めば効く避妊薬はありますか? 絶対に妊娠しないやつです」
