第1章

 古崎言舟との結婚式まであと一時間という時、彼の幼馴染である林原夢子から電話がかかってきた。

「もうお邪魔できないわ。今日中に引っ越すことにしたの……言舟さん、結婚おめでとう」

 古崎言舟は切迫した口調で叫んだ。

「夢子、早まるな! 鬱の症状が落ち着いたばかりだろう、一人で引越しなんて何かあったらどうするんだ!」

「大丈夫、ただの引越しよ。一人でも平気……」

 古崎言舟はチラリと私を見ると、苛立たしげに歩き回った。

「待ってろ、引越し業者を手配するから」

 電話を切った彼に、私は静かに尋ねた。

「林原夢子が引っ越すの?」

「ああ」

 古崎言舟は眉間を揉んだ。

「アシスタントに行かせる」

 彼は私に向き直り、何度も保証した。

「雫、安心してくれ。今日は僕たちの結婚式だ。何があっても君より大事なものなんてない」

 私は何も言わず、鏡越しに彼を見つめた。

 その電話を受けて以来、彼は明らかに焦燥しきっている。

 もし林原夢子からもう一度電話がかかってきたら、彼がここを飛び出していかないという保証はどこにもない。

 かつて彼は林原夢子のために、何度も私を置き去りにしてきたのだから。

 私は彼の理性に賭けるしかなかった。これが自分たちの結婚式だという自覚があることを信じて。

 しかし三十分後、予想通り林原夢子から二度目の電話がかかってきた。

 古崎言舟は五秒間ためらった末、通話ボタンを押した。

 電話の向こうから、激しい口論が聞こえてくる。

『その箱に触らないで! 母の形見なの! 持っていかないで!』

『うるせえ! 男に金払わせろ! 敷金十万円も滞納しといて被害者ぶってんじゃねえぞ!』

 古崎言舟の顔色が瞬時に青ざめた。

「やめろ! お前ら何者だ?!」

 林原夢子の悲痛な泣き声が受話器を突き抜けて響く。

『言舟さん、手配してくれた人は二時間かかるって言うから、式に遅れないように自分で探したの……でも、この人たち、お母さんの形見を持っていこうとして……』

「今どこだ?! すぐに行く!」

 古崎言舟は猛然と振り返り、なりふり構わず非常口へと走り出した。

「古崎言舟!」

 私は二段飛ばしで追いかけ、彼がドアを開ける寸前で立ちはだかった。

「どこへ行くつもり?」

「夢子が悪質な業者に絡まれてるんだ!」

 古崎言舟は目を血走らせ、額に脂汗を浮かべていた。

「相手はチンピラだぞ、女の子一人で太刀打ちできるわけがない!」

「警察を呼べばいい。管理会社でもいい。警察に任せれば済む話でしょう」

 私は冷ややかに彼を見据えた。

「式の開始まであと二十分しかないのよ」

「分かってる! でも宇原雫、人命に関わることなんだぞ! 夢子は今怯えてるんだ。親を亡くしたばかりでこんな目に遭って、彼女が壊れてしまったらどうする!」

 私は彼の目を真っ直ぐに見つめた。

「それで?」

 古崎言舟は一瞬呆気にとられ、次いで信じられないものを見るような表情を浮かべた。

「宇原雫、いつからそんな冷血な女になったんだ?」

「君は世界チャンピオンだ。メンタルも強いし、試合であらゆる修羅場をくぐり抜けてきただろう? でも夢子は違う。彼女は脆いんだ、彼女には僕しかいない!」

 心臓を鋭利な刃物で抉られたような痛みが走った。

 私は昨年、フェンシング世界選手権で金メダルを取ったばかりだ。選手として最も脂の乗った時期に、古崎言舟のために引退を決めた。

 それなのに今、私が誇りとしてきた金メダルと栄光が、私を捨てるための口実になっている。

「今日が私たちの結婚式だって分かってるの?」

 彼は目を閉じ、顔に苦渋と決意を滲ませた。

「約束する。一時間以内に必ず戻る。司会者に時間を遅らせるよう伝えてくれ」

 やはり、行くつもりなのだ。

 私は震える声で告げた。

「古崎言舟、今このドアを出て行くなら、もう結婚式は必要ないわ」

 古崎言舟の足が止まった。だが、彼はただこう言っただけだった。

「戻ったら話そう」

 彼は私を突き飛ばし、ドアを開け、一度も振り返ることなく駆け去っていった。

 私は深く息を吸い込んだ。あまりの馬鹿馬鹿しさに、乾いた笑いが出そうになる。

 踵を返し、一人で披露宴会場へと向かうと、ステージ上のマイクを握った。

「ご親族、並びにご友人の皆様」

 私の声はスピーカーを通じ、会場の隅々まで明瞭に響き渡った。

「大変申し訳ございませんが、本日の結婚式は中止とさせていただきます」

「たった今、新郎である古崎言舟氏は、一人では何もできないか弱い幼馴染の看病をするために、この会場を後にしました」

 会場は瞬く間に騒然となった。古崎言舟の父親が顔を真っ青にして立ち上がり、私を止めようとステージへ向かってくるのが見える。

 私は彼にその隙を与えず、平穏かつ断固とした口調で続けた。

「よって、私は今ここで宣言します——」

「結婚式を取りやめ、古崎言舟氏との婚約を破棄いたします。今後、私たちはお互いに一切関わり合いません」

 言い終えると、私は頭上のベールを外し、ステージの上に投げ捨てた。

 混乱する人波をかき分け、会場を出ようとしたその時。

 低く落ち着いた声が、私を呼び止めた。

「宇原雫」

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