第3章

 午後二時、冷房の効いた個人経営のカフェ。

 矢原賢一はコーヒーを二つ注文すると、いつものように簡潔に、核心を突いてきた。

「来年の世界選手権、お前に金メダルを連覇させる」

 私は黙って視線を落とした。

「矢原監督、ご存知の通り私は一年半もブランクがあります。あの頃の状態に戻れるかどうか……」

 矢原賢一は私の目を見つめた。その視線は灼熱のように熱く、揺るぎなく、私の臆病さを焼き尽くすようだった。

「戻れる。お前が宇原雫である限り、俺についてくる限り、金メダルはお前のものだ」

 その時、ドアのカウベルが乱暴に鳴らされた。

 反射的に顔を上げると、古崎言舟が入ってくるのが見えた。

 彼は店内を見回し、私を見つけると大股で突進してきた。

「宇原雫!」

 私は彼を、見知らぬ他人のように平然と見つめた。

「林原夢子の件は片付いたの?」

 古崎言舟は言葉を詰まらせ、勢いを削がれたように少し声を弱めた。

「夢子はもう落ち着いたよ。説明しに来たんだ、あの時は緊急事態で……」

 言いかけて、彼は私の向かいに座る人物に気づいた。

「誰だ、そいつは?」

「矢原賢一だ」

 矢原賢一は椅子の背にもたれたまま、立ち上がろうともしない。

「宇原雫のコーチだ」

「コーチ?」

 古崎言舟は一瞬呆気にとられ、すぐに鼻で笑った。

「宇原雫はずっと前に引退したんだ。コーチだとしても、もう関係ないだろう」

「そうかな?」

 矢原賢一は手にしたアイスコーヒーを揺らした。

 古崎言舟は眉をひそめ、私に向き直った。

「宇原雫、こんなところでこいつと何をしてるんだ? まさか復帰したいなんて言わないよな? 引退するって約束しただろう!」

「私が約束したのは、あなたの婚約者としての約束よ」

 私は顔を上げ、彼の視線を受け止めた。

「古崎言舟、今、私たちはまだその関係にあるのかしら?」

 古崎言舟は言葉に詰まり、顔を赤らめた。

「ふざけるのはやめてくれ。結婚式ならやり直せばいい……」

「やり直す?」

 私は彼の言葉を遮った。

「また彼女から電話がかかってきて、あなたは式場からいなくなるのに?」

 古崎言舟は反射的に否定した。

「そんなことはない」

「そう約束したのは初めてじゃないわ。古崎言舟、教えて。どうしていつも彼女なの?」

「どういう意味だ?」

「去年あなたの誕生日、私はレストランを予約して、二人で過ごそうって約束したわよね」

 私の声は静かだったが、一語一句が古傷を剥がすように鮮明だった。

「結局、林原夢子が海外から帰ってきてあなたの誕生日を祝うからって、あなたは空港へ迎えに行き、私はレストランで二時間も待ちぼうけを食らった」

 古崎言舟は慌てて弁解した。

「あれは夢子が異国の地から戻ったばかりで、本当に心細がっていたから……」

「じゃあバレンタインは?」

 私はさらに問い詰めた。

「林原夢子が亡くなったお父さんの夢を見て眠れないって言ったら、あなたは私を置いて、車を一時間飛ばして朝まで彼女に付き添った」

「あの時は鬱が再発したんだ! 人命に関わることだったんだぞ!」

 古崎言舟の声が大きくなる。

「そう、鬱ね」

 私は頷いたが、眼差しは冷えていく一方だった。

 横で矢原賢一が、極めて小さな冷笑を漏らした。

「古崎さんは現代の聖人君子だな」

 古崎言舟は忌々しげに彼を睨みつけ、私への説明に戻った。

「夢子には僕しかいないんだ。両親もいないし、僕たちは幼馴染で……」

「じゃあ、私が熱を出した時は?」

 私は突然声を張り上げた。声が微かに震える。

 古崎言舟が固まった。

「何だって?」

「今年の一月、私が四十度の高熱を出して、全身が痛くて起き上がれなかった時、電話をしたのに、あなたは林原夢子の家でネズミ退治をしてたじゃない!」

「ネズミよ! あの豪華な別荘にネズミが出るなんて信じられる?!」

 古崎言舟の瞳孔が収縮した。彼はしばらく沈黙し、歯を食いしばって言った。

「夢子が怖がりなのは知ってるだろう……それに、それに君は身体も丈夫だし……」

「だから?」

 私は問い返した。

「彼女は弱者だから、彼女の機嫌は私の金メダル防衛よりも大事なの? 私の高熱よりも? 私たちの結婚式よりも?」

「そうだ! 彼女は脆いんだ! 繊細なんだよ! 誰かがついててやらないとダメなんだ!」

 古崎言舟がついに爆発した。衆人環視の中で彼は怒鳴った。

「じゃあ君はどうなんだ? 宇原雫、君は世界チャンピオンだ! 金メダリストだぞ! どんな修羅場だって見てきただろう? 君はメンタルが強すぎるんだ、僕なんて必要ないだろう!」

 空気が死んだように静まり返った。

 私は呆然とした。

 そして、極めて皮肉な笑いが込み上げてきた。

「つまりあなたの目には、私は強すぎて、守られる資格すらないってこと?」

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