第3章

原野杏梨視点

翌朝、台所から漂ってくる美味しそうな匂いで目が覚めた。

バスローブのままぱたぱたと歩いていくと、恭介が丁寧にホットケーキをひっくり返しているところだった。テーブルにはすでに新鮮なジュースとカットされた果物が並べられている。

「おはよう、杏梨」彼は私に振り向いて微笑んだ。「君の好きなホットケーキを作ったんだ」

『待って、どうして彼が私の好きなメープルシロップのホットケーキを知っているの? 彼がこれを作れるようになったのは、私たちが結婚してからなのに』

「どうしてこれが好きだって知ってるの?」私は眉をひそめた。

恭介は固まり、やや慌てたように言った。「お、憶測だよ。女の子は甘いものが好きだろ、普通?」

私はそれ以上は追及せずに頷いた。だが、私の疑念は深まった。

恭介は朝食をテーブルに運びながら、慎重に言った。「食べてみて。もし口に合わなかったら、作り直すから」

一口食べてみる。いつも彼が作ってくれるものと全く同じ味がした。

「悪くないわ」私は素っ気なく言った。

恭介は目に見えて安堵し、私の向かいに座った。「杏梨、ありがとう」

「何が?」

彼の表情が真剣になった。「こんな形とはいえ、俺が落ち込んでいる時に助けてくれて……昨日の夜は、少し衝動的すぎたかもしれない」

罪悪感が再び私の胸を刺した。

「恭介、実は……」私は彼に真実を告げようとした。

その時、私の携帯が鳴った。

画面に目をやると、心臓が一気に高鳴った。

怜央。私の元カレ。

「帰国した。今日会えないか? スーパーフォーミュラの技術提携プロジェクトの件で」

恭介は私の表情の変化に鋭く気づき、私の視線を追って画面の名前を見ると、全身をこわばらせた。

私は慌てて携帯をしまい、話題を変えようとした。「恭介……」

「杏梨」彼はかろうじて聞こえるほどの声で遮った。「君の夫は……鈴木怜央なのか?」

恭介の問いが、針のように私の心を突き刺した。

私の指は携帯を強く握りしめ、画面にはまだ怜央からのメッセージが光っている。リビングの空気が凍りついたようだった。

「恭介……」私は深呼吸をして、正直に話す決心をした。「実は、私の夫は……」

「もういい!」恭介は突然立ち上がり、無理やり無関心を装って手を振った。「君が誰と結婚したかなんてどうでもいい! 夫が怜央だろうが怜也だろうが怜史だろうが、俺に何の関係がある?」

彼は背を向けて立ち去ろうとしたが、その少し早足な歩みが彼の本心を裏切っていた。

その見え透いた強がりに、私は乾いた笑いを漏らした。

「そう、どうでもいいなら、はっきり言ってあげる」私は冷たく言った。「ええ、怜央が私の夫よ」

恭介の足がぴたりと止まり、その場に凍りついた。

「驚いた?」私は続けた。「あの天才レーサーの怜央が、長年の恋人だった彼が、今の私の夫。今は別居中だけど、法的にはまだ夫婦よ」

恭介はゆっくりと振り返った。「じゃあ……」彼の声はかすれていた。「じゃあ、君はずっと彼のことを……?」

「あなたには関係ないことよ」私は冷たく返した。

恭介の顔が瞬時に曇った。彼は怒りを目に燃やし、私に向かって大股で歩み寄ってきた。

「関係ないだと? 佐江杏梨、俺を馬鹿にしてるのか?」彼は歯を食いしばりながら言った。「昨日の夜、あの浴室で私と一緒にいたくせに……今になって夫が恋しいだなんて言うのか?」

「あれはただの体の欲求よ」私は意図的に、最も突き刺さる言葉で言い返した。「何か特別な意味でもあったとでも思った?」

恭介の顔が青ざめ、目のなかの怒りが徐々に傷ついた色に変わっていった。

「そっか、そうかよ」彼は冷たく笑い、後ずさった。「わかった。どうやら俺は、本当にただの道具らしいな」

そう言うと、彼はドアに向かい、出ていくと力任せにドアを閉めた。

彼の後ろ姿を見つめながら、胸の中に複雑な感情が渦巻いた。

『上等よ、原野恭介。そんなに平気なふりをしたいなら、このゲーム、続けてあげる』

翌朝、私はシンプルな黒いドレスを身にまとい、鈴木怜央に会う準備をしていた。

恭介はリビングのソファに座っていた。髪は乱れ、明らかにろくに眠れていない様子だった。念入りにセットされた私の姿を見て、彼の目には複雑な感情がよぎったが、それでも冷たい表情を保とうとしていた。

「出かけるのか?」彼の声はさりげなさを装っていた。

「ええ、仕事のパートナーとプロジェクトの打ち合わせよ」私は意図的に軽く言った。

恭介の手が拳を握りしめたが、それでも彼は気にしないふりを続けた。「ああ、勝手にしろ」

私は車の鍵を掴み、ドアに向かった。「今夜は遅くなるかもしれないわ。冷蔵庫に食べ物はあるから、夕食は自分で何とかして」

「佐江杏梨!」恭介が突然呼び止めたが、私が振り返ると、彼は唇を噛んだ。「いや、何でもない」

私はそれ以上何も言わず、振り返らずに外に出た。

東京のビジネス街にある高級カフェで、私は早めに到着していた。個室で待っている間、心境は複雑だった。

三年。鈴木怜央と私は、ついに再会するのだ。

その時、外から聞き慣れたフェラーリのエンジン音が聞こえてきた。その深く力強い咆哮が、午後の静寂を一瞬で切り裂いた。

窓から外を見ると、赤いフェラーリ488スパイダーがカフェの前に優雅に駐車した。ドアが開き、鈴木怜央が降りてくる。相変わらず背が高く堂々としていて、完璧に仕立てられたイタリア製のスーツを着こなし、髪は非の打ち所なく後ろになでつけられている。

三年経って、彼はさらに魅力的になったように見えた。

「怜央、相変わらず派手ね」私はカフェから出て、からかわずにはいられなかった。

鈴木怜央は私に気づくと、ぱっと目を輝かせ、かつて私がよく知っていた魅力的な笑顔を浮かべた。

「三年経っても、君は変わらず美しいな、杏梨」

彼は抱きしめようと近づいてきたが、私は礼儀正しく一歩下がり、代わりに手を差し出した。

「おかえりなさい」

鈴木怜央は一瞬動きを止めたが、紳士的に私の手を握った。「ありがとう。中に入って話そうか」

カフェの個室で、私たちは向かい合って座った。鈴木怜央はコーヒーを二つ注文し、私のために無糖のカプチーノを頼むことをまだ覚えていた。

「君は今も無糖のカプチーノが好きなんだな」鈴木怜央は微笑み、その眼差しは優しかった。

私の心は少し揺れたが、すぐに落ち着きを取り戻した。「変わらない習慣もあるわ。仕事の話をしましょう。あなたが言っていたスーパーフォーミュラの技術提携プロジェクトのことだけど」

鈴木怜央の表情が仕事モードに切り替わった。「私は今、ヨーロッパの技術チームと仕事をしていて、主にスーパーフォーミュラの空力設計を担当している。今回帰国したのは、鳳凰レーシングと提携したいと思ったからだ。君たちの技術基盤はしっかりしているし、特にエンジンチューニングに関しては素晴らしい。スーパーフォーミュラのプロジェクトには、鳳凰レーシングの技術サポートが必要なんだ。君の判断力は昔から鋭いからな」

「面白そうな話ね」私は注意深く耳を傾けた。「具体的な提携モデルは?」

「技術共有、人材交流、そして……」鈴木怜央は言葉を区切った。「日本で長期的に活動したいと思っている」

私は眉を上げた。「どうして? ヨーロッパの方がスーパーフォーミュラの技術は進んでいるでしょう?」

鈴木怜央は私を深く見つめ、意味ありげに言った。「個人的な理由だよ」

空気が数秒間静まり返った。彼が何を言いたいのか、私には察しがついた。

「杏梨」怜央はついに口を開いた。その声はとても柔らかかった。「この三年間、君のことを忘れたことは一度もなかった」

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