第2章
その一瞬だけ、私たちは他人じゃなかった。キャンプで出会った親友で、ブランコに乗りながら秘密を分かち合った綾瀬楓と風間明。そして大人になって……こんな、よくわからない関係になった二人だった。
彼の瞳には、疑問と、心配と、そして何か別のものが宿っていた。私の心臓を跳ねさせる、何か。
黒木志乃は彼の注意が逸れたのに気づき、私の方を振り向いた。彼女は目を細めた。
「二人って、知り合いなの?」
彼女の声には、疑念が滲んでいた。
「いや」
風間明はあまりに素早く答えてから、咳払いをした。
「いや、知らないと思う。でも、どこかで会ったような気はするな」
ナイス、風間明。
「よくある顔だから」
私は声を軽くするように努めて言った。
「ところで、今夜の試合、すごくいいわ」
「ありがとう」
私たちはもう一瞬だけ見つめ合って、それから私が視線を逸らした。
「行こう、咲良。ちょっと外の空気が吸いたい」
でも、ドアに向かって歩き出すと、二対の視線が背中に突き刺さるのを感じた。一つは温かさと切なさに満ちていて、もう一つは疑いと打算に満ちていた。
シャワーを浴び終え、タオル一枚の姿でいた時、個室の外から男性の声が聞こえた。
「風間君、水筒がこの中にあったわよ」
更衣室の入口から黒木志乃の声が響いた。
「さっき、あなたのバッグから落ちるのが見えたの」
風間明の水筒?あいつが女子更衣室に忘れ物なんてするはずない。一体、何なの?
私は急いでロッカーエリアに隠れて着替えようとしたけれど、もう手遅れだった。
「あったわ!」
黒木志乃が声を張り上げ、それから足音が聞こえてきた。重い足音が。
「黒木さん、俺はここにいちゃまずい――」
風間明の声は気まずそうだった。
ロッカーの隙間から覗き見ると、黒木志乃がとんでもなくわざとらしい格好をしているのが見えた。
濡れてもいいようにと、Tシャツとショートパンツの上から、ご丁寧に透明なレインコートを羽織っているのだ。
「水はねから服を守るため」だと言い張って。
「心配しないで、もう誰もいないから」
彼女はそう言うと、水たまりで「うっかり」足を滑らせた。
「うわっ!」
風間明はとっさに彼女を支えようと手を伸ばし、彼女の両手は彼の胸に着地した。
彼女は吐息混じりに言った。
「すごく、たくましいのね」
市民劇団の芝居より下手くそね。でも風間明は本気で心配している。あいつは誰かが転んだら助けずにはいられない、そういう男だから。
「大丈夫か?」と彼は尋ねた。
「ええ、なんとか。ベンチまで支えてくれるかしら?足首が、ちょっと……」
その時、私は「わざと」ロッカーのドアを、バタン!と大きな音を立てて閉めた。
「きゃっ!」
黒木志乃は飛び上がり、さっきまで痛いはずだった足首は、突然なんともなくなっていた。
風間明が音のした方を向いた。
「まだ誰かいるな」
「たぶん用務員さんよ」
黒木志乃は早口で言った。
「さあ、行きましょ」
二人は去っていったが、廊下の向こうまで黒木志乃が自分の「怪我」についてぺちゃくちゃ喋っているのが聞こえた。
その夜遅く、水野咲良は私のベッドの上でポップコーンを食べながら、私が語る一部始終に耳を傾けていた。
「つまり、整理させて」と彼女は言った。
「黒木志乃は、あんたが裸で隠れてる間に、更衣室で風間明に言い寄ってたってわけ?」
「裸じゃない。タオルは巻いてた」
「似たようなもんでしょ。で、あんたは何も言わなかったの?」
私は肩をすくめた。
「なんて言えばよかったの?『ねえ、私がぜーんぜん興味ないその男を誘惑するのやめてくれない?』って?」
もし水野咲良が私と風間明の本当の関係を知っていたら、この状況をすぐに理解してくれただろう。でも、彼女には言えない。
「綾瀬楓」
水野咲良は真剣な顔になった。
「黒木志乃はあんたに勝負を仕掛けてきてるのよ。それなのに、あんたは土俵にすら上がってないじゃない」
「どういうこと?」
「あんたのこと、ずっと見てるってこと。気づいてなかった?風間明が近くにいる時、彼女はいつもあんたを見て、反応を窺ってる」
気づいてたんだ。水野咲良が気づくくらいなら、黒木志乃だって絶対に気づいてる。
「何か疑ってると思う?」
「あんたが彼のことを好きなんじゃないかって疑ってるんだと思う。まあ、正直なところ、誰だってそう思うでしょ?」
彼女が知ってさえいれば、ね。
二日後、私は風間明を探して、彼のロッカーへ向かった。更衣室での一件と、黒木志乃にどう対応するかについて、話し合う必要があったからだ。でも、そこに着いた私が目にしたのは、腹の底から怒りがこみ上げてくるような光景だった。
黒木志乃が、風間明がロッカーを開けたまさにその瞬間を狙って、「うっかり」彼に倒れかかっていた。彼の腕は自然と彼女の両脇で支える形になり、完璧な壁ドンのポーズが出来上がっていた。
そして都合のいいことに、水野咲良がスマホを構えながら通りかかった。
「きゃっ、二人とも大丈夫?」と水野咲良は言ったが、その指はすでにスクリーン上を滑っていた。
「大丈夫よ」
黒木志乃は息を切らしながら言った。
「風間君が、ちょうど……受け止めてくれたの」
この女……。全部、計画通りってわけね。
「実は」
私は彼らに向かって歩きながら、わざと大きな声で言った。
「何が起きたのか、ちゃんと見てたと思う」
三人が一斉に私の方を振り向いた。
「そこの床、濡れてるわ」
私は完全に乾いた場所を指さした。
「給水器の水で。誰か報告した方がいいかも。危ないし」
風間明の視線が私と絡み、その瞳に安堵と感謝の色が浮かぶのが見えた。
「ああ」
彼は黒木志乃を優しく立たせながら言った。
「教えてくれて助かった。黒木さん、本当に大丈夫か?」
「平気よ」と彼女は言ったが、その目は私を射殺さんばかりに睨みつけていた。
その日の夕方、水野咲良が私のベッドの上でスマホをいじっていると、突然がばっと身を起こした。
「綾瀬楓、これ見て」
彼女は画面を私の方に向けた。
黒木志乃のSNSには、風間明を背景に、自分が手前に写った写真が投稿されていた。「クォーターバックが受け止めてくれた時 #幸せ」
「これを投稿したの?」
答えは分かりきっていたけれど、私は尋ねた。
「もっとひどいのが、ある」
水野咲良は別の投稿へとスクロールした。そこには、風間明の練習着らしきものを着た黒木志乃が写った。
「お気に入りの運動着で試合の準備は万端#選手の奥さん」
あれは彼の練習着じゃない。彼の練習着には特有のステッチパターンがあるけど、これにはないから、すぐに分かった。彼女が買った複製品だ。
「どうかしてる」と私は言った。
「でも、効果は絶大みたい。コメント見てよ」
画面には何百ものコメントが溢れていた。
「二人とも超お似合い!」
「理想のカップル!」
「結婚はいつ?」
「水野咲良」
私は慎重に切り出した。
「もし、これが全部嘘っぱちだって言ったら、どうする?」
「どういう嘘?」
「なんていうか……もし彼女が、注目を浴びたいがために全部でっち上げてるんだとしたら?」
水野咲良は真剣な顔で私を見た。
「だったら、彼女を止めないと。あの可哀想な男の子の評判と、あんたの評判が台無しになる前にね」
「私の?」
「綾瀬楓、いい?あんたは彼のことが好きなのよ。彼本人以外には、バレバレなんだから。だから、行動を起こすか、さもなければ彼女が不戦勝するのを黙って見てるしかないの」
それが、そんなに簡単なことだったらいいのに。
今回は、準備万端で臨んだ。私と水野咲良はパーティーに早めに着いた。私はシンプルな黒いドレスを着ていた。いつか風間明が、黒は私の色だと言ってくれたことがあったから、彼が気に入ってくれると分かっていた。
黒木志乃は一時間遅れで現れ、すでに足元がおぼつかなかった。
「きゃあああ、綾瀬楓!」
彼女はほとんど私に倒れかかってきた。
「ちょー可愛いじゃん!」
酔ってなんかいない。瞳孔は開いてないし、呂律が回っていないわけじゃなく、ただそう見せかけてるだけだから、すぐに分かった。
「ありがとう、黒木さん。大丈夫?」
「ばっちりよ!でも、ちょっと外の空気が吸いたいかも。ねえ、風間君はいる?」
やっぱりね。
「キッチンにいると思うよ」と水野咲良が言った。
「最高!彼に家まで送ってもらわなきゃ。酔いすぎてタクシーも呼べないの」
彼女は人混みを縫うようにしてキッチンへ向かった。私は、バレないように十分な距離を保って後を追った。
「風間君!」
黒木志乃は彼に身を投げ出した。
「すごく酔っちゃって、帰れないの。だから、もしかして……?」
「大丈夫か?」
彼は心から心配しているようだった。
「友達はどこにいるんだ?」









