第1章

ビジネス界には、公然の『秘密』がある。

藤原宗司と初香が、離婚する──と。

三年前。

藤原宗司は、高田桜子との婚約を目前にして、すべてを反故にした。

高田桜子はまるで当てつけるかのように、日本を捨てて海外へと渡った。

そして藤原宗司は──かの巨大財閥、藤原グループの次期社長という立場でありながら、わずか二ヶ月後、何の後ろ盾もない新留初香という女を娶ったのだ。

結婚式の日。

鏡の前に立つ私は、値の付けようもないウェディングドレスに身を包んだ自分を見つめながら、これが自分のものではないと、ただ静かに悟っていた。

私は、高田桜子への嫉妬心を煽るための、ただの当て馬。

その役割を、痛いほど理解していたから。

『高田桜子が帰国すれば、藤原はあの家政婦の娘とすぐに離婚する』

そんな噂が、まるで真実であるかのように囁かれていた。

けれど、結婚して三年。すべては変わった、はずだった。

毎朝、宗司は優しい手つきで私の肩を叩いて起こしてくれる。ベッドサイドには、いつもホットミルクが置かれていた。

私がまだ眠たげにしていると、その頬に柔らかなキスを落とす。

嬉しかった。宗司が、私のことを好きになってくれたのだと、そう思えたから。

そんな、ある日のこと。

私はバスルームで、妊娠検査薬を手に立ち尽くしていた。くっきりと浮かび上がった二本の赤い線に、心臓が早鐘を打つ。

……妊娠、した。

宗司の、子供を。

すぐにでもこの吉報を伝えたい。逸る気持ちでバスルームを出た私の目に映ったのは、窓辺で電話をする彼の背中だった。その険しい表情に、私は思わず足を止めた。

「何の用だ」

宗司の声は、凍てつくように冷たい。まるで、敵にでも話しているかのようだ。

どうしたのだろう。私が彼をなだめようと一歩踏み出した、その時。

「……帰ってきたのか」

彼の声が、微かに揺れた。

「お、俺に会いたい、だと?」

電話の向こうが、何かを言ったのだろう。先ほどまでの冷酷さが嘘のように和らぎ、けれどなおも虚勢を張るように、彼は言った。

「俺がどうしていようと、お前には関係ないだろ!」

初めて聞いた。宗司の声に、どこか卑屈で、怯えるような響きが混じっているのを。

妊娠の報告をする間もなかった。彼は慌ててジャケットを羽織り、焦るあまり靴下まで裏返しに履いている。

出かける間際、ようやく私に気づいた宗司は、いつものように、まるで任務をこなすかのように私の額に口づけた。

「さっき電話があってな。今夜は接待で遅くなる。先に寝てていい」

彼の顔には、抑えきれないほどの笑みが浮かんでいる。度が過ぎるほど、優しい声で。

「初香、愛してる」

聞き慣れたはずのその言葉が、私の心を氷のように冷たくさせた。こみ上げてきた吐き気に、思わず口元を覆う。

不快な感覚が、じわじわと全身を蝕んでいく。

宗司は一瞬きょとんとしたが、私を気遣う言葉もなく、ただ焦ったように言った。

「じゃあ、もう行く。初香は家でちゃんと休んでろよ」

遠ざかっていく背中を見送りながら、ずっと、ずっと後になってから、私はか細い声で答えた。

「……はい」

高田桜子と再会したのは、とあるパーティーでのことだった。

宗司に連れられて訪れたホテルの個室。その一角で、見知らぬ男が高田桜子に無理やり酒を飲ませているのが見えた。

「お嬢ちゃん、いくら欲しいんだ?値段を言ってみろよ。その価値があるか、見てやるからさ」

下卑た声が、個室に響く。先ほどまで和やかに挨拶を交わしていた宗司の機嫌が、みるみるうちに険しくなっていくのが隣にいてわかった。

「本当に金に困ってるなら、藤原宗司に頼めばいいじゃねえか。あいつ今じゃすげえ金持ちだし、それに、お前ら元は初恋同士だったんだろ?」

囃し立てる者までいる。

個室内には大勢の人がいた。高田桜子は、宗司に見られるのを恐れるかのように、ただ俯いている。

不意に、こちらに気づいた誰かが叫んだ。

「お、藤原じゃねえか。見ろよ、誰かと思えば」

私は黙って、高田桜子を見つめた。

宗司は、苦虫を噛み潰したような顔で言い放つ。

「俺の前で彼女の名前を出すな。遊びたいなら外でやれ。俺の奥さんもここにいるんだ。彼女を不快にさせるな」

周りの者たちは口々に、宗司は初香を心から愛しているのだと褒めそやし、彼の心を射止めた私を羨んだ。

誰も、彼女に助け舟を出さない。実家が破産した高田桜子は、格好の玩具だった。

「海外にいた数年で、外人の男も試したのか?」

「金だろ?ベッドで大人しく腰を振ってくれりゃ、喜んで払ってやるぜ」

宗司は椅子に深く背を預けて煙草を咥え、まるで目の前の光景など存在しないかのように、一本、また一本と紫煙を燻らせている。

けれど、私と繋がれた彼の手は、骨が軋むほど固く握り締められていた。私が苦痛の声を漏らして、ようやく彼は我に返る。

「……悪い」

彼の気持ちがわかるからこそ、私の心は一層、きりきりと痛んだ。

そして、ついに。

宗司の何かが、ぷつりと切れた。

彼の眼差しが、突如として獣のように獰猛に変わる。高田桜子を取り囲んでいた男たちを突き飛ばし、酒のグラスを持っていた男を容赦なく蹴り倒すと、さらにその腹を思い切り踏みつけた。

「失せろ。次に桜子に指一本でも触れてみろ、殺すぞ」

血走ったその目に、誰もが呆然と彼を見つめ、そして──私に視線を移した。

誰かがスマホで動画を撮っている。私は彼を落ち着かせようと、その手に触れようとした。

しかし、宗司はその手を、乱暴に振り払った。

「俺に、触るな」

続けて彼は、酒を無理強いされて頬を染めた高田桜子を、心の底から愛おしむような、柔らかな眼差しで見つめた。

「大丈夫か?……悪かった。お前がここにいると知っていたら、初香なんて連れてこなかったのに」

彼は高田桜子の腰を強く抱きしめる。まるで、失われた数年間をすべて取り戻そうとするかのように。

その場にいた誰もが、目撃した。

宗司が、高田桜子を選んだことを。

彼が、私を捨てたことを。

この瞬間。

藤原宗司が本当に愛しているのは誰なのか、世界中の誰もが、理解したのだった。

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