第3章
マンションの窓際に立ち、私はまだ平坦な自身の下腹部を、そっと撫でた。
窓の外では、東京の夜景が宝石を撒き散らしたように煌めいている。けれど、その光はもう、私の世界を照らしてはくれなかった。
『初香さん、あなたの体調は非常に不安定です』
医師の冷静な声が、耳の奥で木霊する。
『長期にわたる薬の服用が、胎児に影響を及ぼす可能性は否定できません。……残念ですが、今回は諦めることをお勧めします』
宗司には、まだ何も告げていなかった。
あの日、エレベーターでの屈辱的な一件の後、私は彼の豪邸を飛び出し、独身時代から持っていたこの小さなマンションに逃げ込んだ。
この半月、藤原宗司が私を探す気配は一切なかった。彼の時間は、会社の業務と、華やかな会食と、そして──高田桜子との逢瀬で埋め尽くされているのだろう。
それも、当然のこと。
彼はもとより、私のことなど気にもかけていなかったのだから。
不意に、スマートフォンの画面が光った。会社のアシスタントから送られてきた一本の動画。
無意識にタップすると、煌びやかなパーティー会場が映し出された。その中心にいるのは、藤原宗司。彼は、満面の笑みを浮かべる高田桜子の腕に、限定モデルの腕時計を自らの手で着けてやっていた。
高田桜子は人目も憚らず彼の首に抱きつき、二人は幸せそうに笑い合っている。まるで、世界に祝福された恋人同士のように。
『社長より伝言です。明日の取締役会は、ご欠席ください』
追い打ちをかけるようなメッセージ。
手術の予約は、明日の午後だった。
その瞬間、胸騒ぎと共に、ある記憶が鮮やかに蘇った。
母が遺してくれた、家宝のペンダント。
あれは、母が亡くなる前に託してくれた、たった一つの形見。藤原家の金庫に、大切にしまってあるはずだ。
「……取りに戻らないと」
誰に言うでもなく、私は呟いた。
◇
夜の闇に沈む、かつての我が家。
指紋認証ロックに手を伸ばした私の耳に、冷たい機械音声が突き刺さる。
「認証に失敗しました」
──指紋が、リセットされている。
呆然と立ち尽くす私に、夜風が容赦なく吹き付けた。
宗司に電話をかけると、悪夢のような声が聞こえてきた。
「あら、初香さんじゃない」
高田桜子だった。わざとらしく甘ったるい声が、私の鼓膜を震わせる。
「宗司に何か用?ごめんなさい、今、彼は電話に出られないの」
「家に入って、少し物を取りたいだけ。暗証番号が変わっているから、教えてほしいの」私は、かろうじて平静を装った。
「今日はダメよ」
高田桜子の声は、隠しきれない優越感に満ちていた。
「今日は私の誕生日なの。宗司が、東京の展望台に連れてきてくれてるのよ。ロマンチックでしょ?」
言葉を失う私に、彼女は追い打ちをかける。
「暗証番号を教えろって?それはちょっと都合が悪いわね。私たち、二人とも家にいないし、あなたみたいな『部外者』が勝手に入るなんて、物騒じゃない?」
部外者。その言葉が、私の心を鋭く抉った。
何度か試した後、ふと、ある数字が頭をよぎる。
──高田桜子の誕生日。
震える指で入力すると、カチャリ、と。
錠が開く、無機質な音がした。
◇
かつて慣れ親しんだはずの家は、完全に別の誰かのものに成り代わっていた。
リビングの壁にあった私たちの結婚写真は、宗司と高田桜子の親密なツーショットに差し替えられている。
私が丹精込めて世話をしていた鉢植えは跡形もなく、代わりにけばけばしいフラワーアートがこれ見よがしに飾られていた。
書斎は、高田桜子の個人スタジオへと姿を変え、壁には彼女が表紙を飾ったファッション雑誌がずらりと並んでいる。
ウォークインクローゼットからは私の服は全て消え去り、値札が付いたままのオートクチュールのドレスや高級ブランド品が、私を嘲笑うかのように鎮座していた。
寝室へ向かい、金庫に直行する。
暗証番号を入力すると、重い扉がゆっくりと開いた。私は自分の重要書類、現金、そしてアクセサリーを急いで鞄に詰める。
しかし。
金庫の中を隅々まで探しても、母が遺してくれたペンダントだけが見当たらない。
「そんな、はずは……」
焦燥に駆られ、何度も中を探るが、そこにあるのは冷たい空虚だけ。
私はその場に、へたり込んだ。
母の、優しかった顔が脳裏に浮かぶ。
高田桜子は、知っていたのだ。
あれが、ただのアクセサリーではない。
私の母の、最後の形見であることを。
だからこそ、わざと、あのペンダントだけを奪ったのだ。
◇
十五年前。母は、藤原家で家政婦をしていた。
藤原家に遊びに来る高田桜子は、表向きは私に優しく接しながら、裏では母と私を「下賤の者」と見下していた。
ある日、高田桜子が流暢な英語で母を罵ったことがあった。意味が分からず、ただ困ったように微笑む母。
私が母を守ろうと高田桜子と揉み合いになり、その弾みで母は突き飛ばされ、テーブルの角に体を強く打ち付けた。
それからほどなくして、母の身体に末期の癌が見つかった。
亡くなる直前、母は衰弱した体を引きずって古い神社へ赴き、一つのお守りのペンダントを授かってきた。
『これを身に着けていれば、初香はきっと、幸せで健やかに過ごせるから』
そう言って、弱々しくも愛情に満ちた瞳で、私を祝福してくれた。
その様子を見ていた高田桜子は、ただ一言、こう吐き捨てたのだ。
「こんなガラクタを信じるなんて、馬鹿みたい」
私の目から、音もなく涙が滑り落ちた。
あれは、ただのペンダントではない。
母の愛そのものだった。私の幸せを願う、母の祈りそのものだった。
今、その最後の想いさえも、踏みにじられた。
静かな絶望が、冷たい怒りの炎へと変わっていくのを、私は感じていた。
もう、何も失うものはない。
そして、決して許さない。
私の心は、静かに、しかし確かに決壊した。






