第1章
ニューヨーク、午後十一時。冷たい風がナイフのように私の顔を切りつけた。
使い古した電動スクーターの傍らで、私は体を縮こまらせ、震える指でスマートフォンの画面をなぞっていた。制服には今夜の配達でついたコーヒーの染みが点々とあり、腫れ上がった両手は寒さでほとんど感覚を失っていた。
「三百ドル、足りない……」
今日の稼ぎを見つめ、私は歯を食いしばった。
家賃の支払いは明日。家主は一セントたりとも容赦してくれないだろう。三年前、三百ドルなんて週末の遊びに気楽に使える程度の金額だった。それが今では、私が夜通し働くための唯一のモチベーションになっている。
スマートフォンが震え、新しい注文が入った。
【配達先:クロスレストラン。チップ予想額:50ドル。備考:VIP個室】
心臓が激しく跳ね上がった。
クロスレストラン――かつて私がファッション業界の大物たちとワインを酌み交わし、オートクチュールのドレスをまとって足を踏み入れた場所。
「これが最後の配達。終わったら家に帰る」
凍てつく夜空に向かって、私はかすれた声で呟いた。
でも、五十ドルものチップを断ることなんてできなかった。
スクーターはニューヨークの街をふらつきながら進む。信号の一つ一つが、まるで運命の審判のように感じられた。心の中で必死に祈る。
『知っている人には会いませんように、誰にも会いませんように……』
十五分後、私はクロスレストランの前に立っていた。
煌めくクリスタルのシャンデリア、イタリア産大理石の床、燕尾服のドアマン――すべてが三年前と変わらず豪華絢爛だった。ただ、今の私は『パルス雑誌』の辣腕編集長ではなく、寒さに震えるただの配達員だということを除けば。
「配達の方でいらっしゃいますか?」
マネージャーは丁寧な口調で尋ねてきたが、その目は私の着古した制服をさりげなく品定めしていた。
「はい、VIP個室へのご注文です」
私は帽子のつばを深く引き下げ、声が震えないように努めながら答えた。
「こちらへどうぞ」
マネージャーに案内され、見覚えのある廊下を歩いていると、記憶が潮のように押し寄せてきた。かつてここでファッション業界のエリートたちと笑い合い、何百万ドルもの広告契約をこのホールで結んだこともあった……。
そして今、私はただの配達員として、彼らにこのチーズプラッターを届けなければならない。
「こちらがVIPルームです。ノックをしてお入りください」
マネージャーはそう言うと去って行った。
個室のドアの前に立ち尽くす。中から聞こえてくるのは、聞き覚えのある笑い声――かつて私の耳元で「愛してる」と囁いた、忘れられるはずのない声だった。
ありえない……どうして彼がここに……。
ドアノブにかけた手は、十秒もの間、動かせなかった。心臓が胸から飛び出してしまいそうなほど、激しく鼓動していた。
ノックをした。
「どうぞ」
ドアを押し開けた瞬間、そのシルエットが目に入った――背が高く、まっすぐで、後ろ姿だけでも誰だか分かった。長谷川冬月。かつて私の前で震えていた配達員の少年は、今やファッション界の頂点に立つスーパーモデルになっていた。
震える手から、持っていたチーズプラッターを落としそうになった。
「チーズプラッターでございます」
長谷川冬月に背を向けたまま、できるだけ低い声でそう告げ、おぼつかない手つきでチーズを切り分け始めた。
部屋では三人が談笑していた。長谷川冬月の声がはっきりと聞こえてくる。
「ユニタロのキャンペーンは順調だよ。フォロワーがまた五十万人増えた」
「長谷川さん、本当に飛ぶ鳥を落とす勢いですね」
別の男の声が、お世辞たっぷりに言った。
「伝説といえば、長谷川さん、昔のあの謎の女性は見つかったんですか?業界中がその噂で持ちきりですよ」
私の手が、完全に止まった。
「はっ」
長谷川冬月は軽く鼻で笑った。その声色には、私が今まで一度も聞いたことのない冷たさが宿っていた。
「ただの虚栄心の強いパトロン女さ。飽きたらすぐに逃げ出しただけだ。俺が彼女を探してるのは、ただ一つ、なぜあの時あんな風に俺を辱めたのか、それを問いただすためだけだよ」
持っていたナイフが手から滑り落ち、人差し指を深く切り裂いた。
白いブリーチーズが、瞬く間に血で赤く染まる。
「あっ!」
思わず痛みに声を上げてしまった。
そう……あなたは、私のことをそんな風に見ていたのね……。
三年間、ずっとあなたを想い続け、罪悪感に苛まれ、毎晩写真を見ては泣いていたのに……そのすべてが、この一瞬で無に帰した。
一瞬、長谷川冬月の顔に何かがよぎった――驚き、あるいは心配の色だったかもしれない――だが、すぐに無関心な仮面が元の位置に戻った。
「どうした?」
長谷川冬月の声が、不意に近づいてきた。
「申し訳ありません!すぐに新しいチーズプラッターをお持ちします!」
私は必死に指をナプキンで巻き、この場から逃げ出したかったが、涙はもう止めどなく溢れていた。
「待て、こっちを向け」
長谷川冬月の声には、命令するような響きがあった。
「いえ、結構です。私が処理しますので」
声は震え、足はドアへと向かっていた。
「こっちを向けと言ったんだ」
その声、その口調は、三年前、『パルス雑誌』で初めて会った時の私とまったく同じだった。私が決して抗うことのできなかった、あの頑なな決意を目に宿していた。
でも、振り向くわけにはいかない。絶対に。
私は個室を飛び出し、エレベーターへと一直線に向かった。
エレベーターのドアが閉まろうとしたその時、細い手がすっと差し込まれた。
長谷川冬月がエレベーターに乗り込んでくる。その存在感だけで、狭い空間は一瞬で満たされた。彼は本当に変わってしまった――高価な仕立ての良いスーツ、完璧なプロポーション、そしてカメラを通して世界中の女性の心を虜にしたあの顔。
だが、その瞳だけは三年前と同じ――深く、そしてまっすぐだった。
エレベーターのドアが閉まり、世界が静止したかのように感じられた。
「三年ぶりだな、神谷綾羽」
彼の声は低く、危険な響きを帯びていた。
「お客様、人違いです。私の名前は松本玲子です」
私はエレベーターの階数表示を凝視し、早く一階に着くことだけを祈った。
「まだ逃げるのか?」
長谷川冬月は冷ややかに笑った。
「名前を変えれば、俺が分からないとでも思ったか?左耳の後ろにある小さなほくろ、チーズを切る時に無意識に下唇を噛む癖、そして……」
彼が私の顎を持ち上げようと手を伸ばし、私はとっさにエレベーターの壁に背を押し付けた。
「そして、嘘をつく時に決して人の目を見ようとしない、その瞳」
「何のことだか分かりません!」
ほとんど叫ぶように言った。涙で視界は完全にぼやけていた。
どうして私を探すの?どうして静かに消えさせてくれないの?
エレベーターがようやく一階に着き、ドアが開いた瞬間、私は飛び出した。
「俺を捨てたのは、このためか?」
長谷川冬月の声は、怒りと信じられないという感情が入り混じり、ひび割れていた。彼は私の後を追ってきた。
「こんな生活をするために?こんな風に自分を痛めつけるために?」
「『飽きた』というのは、本当に俺を捨てた時の本心だったのか?」
私は振り返らず、レストランの裏口に向かって必死に走った。
「私は大丈夫!すごく幸せよ!」
走りながら叫んだが、声は嗚咽で完全に詰まっていた。
「嘘をつき続ければいい」
背後から追ってくる長谷川冬月の声には、今まで聞いたことのない危険な響きが宿っていた。
「だが、もう二度とお前を消えさせはしない」
レストランの裏口を突き破ると、ニューヨークの冷たい風が一気に私を包み込んだ。
指から流れ続ける血と涙が混じり合い、地面に滴り落ちる。私は路地に停めてあった自分のスクーターに向かって、よろめくように歩いた。
「どうして、現れたのよ……」
暗い空に向かって、私は泣き叫んだ。
どうして、静かにあなたを愛させてくれないの?







