第6章
「古崎社長、どうしてここに?」
病室に突然声が響き、水原明美がようやく訪れかけていた眠気が吹き飛んだ。
振り向くと、ドアのところにワイシャツ姿の男性が弁当を手に立っていた。田中俊太だ。彼女のために食事を買いに出かけていたはずだ。
空気が一気に凍りついた。古崎正弘は彼女のベッドの縁に座り、二人の距離はとても近く、部外者が見れば二人の間に言葉にできないことが起きたのは明らかだった。
田中俊太はまだ二人の関係を知らないし、彼女もそれを知られたくなかった。
慌てて説明しようとした時、隣の古崎正弘が口を開いた。「体調を崩して病院に検査に来たんだ。水原さんが怪我をしたと聞いて、ついでに見舞いに来た」
この男は落ち着き払って、まるで本当に彼女を見舞いに来たかのように振る舞っていた。ほんの少し前まで彼女の服に手をかけ、からかっていたというのに。
水原明美は男を横目で見て、冷ややかに皮肉った。「体調が悪いなら家でゆっくり休んだ方がいいですよ。あちこち歩き回らないで」
「大丈夫だ。そこまで弱ってはいない。少なくとも人を抱き上げる力はまだある」彼は意味ありげに言い、黒曜石のような瞳で彼女の体を舐めるように見た。
つまり彼女を弄んでいるわけだ。
田中俊太は先ほどの出来事を知らず、水原明美と古崎が言い合いをしているのを見て、冗談めかして笑った。「仲良くやっているみたいで何よりです」
「全然良くないわ」
水原明美は古崎正弘と同じ空間にいることに耐えられず、時間も頃合いを見て、はっきりと客引きをした。
「古崎社長、もう私を見舞ってくれたんですから、そろそろお帰りになっては?」
途端に古崎正弘は心中で不快感を覚えた。
いつも人を追い出すのは自分のはずなのに、逆に追い出されるとは。しかもここは水原明美の病室だから、無理に居座るわけにもいかない。
まあいい、彼女は無事なようだし、帰るとしよう。古崎正弘はそう考えた。
しかしそのとき、田中俊太が熱心に古崎正弘を引き止めた。「せっかく来たんですから一緒に食事しませんか?たくさん買ってきましたよ」
「だめ!」古崎正弘が答える前に、水原明美が急いで制止した。
離婚してから彼と一緒に食事をしたことはなかった。普段会うだけでも不快なのに、一緒に食事をしたら消化不良になりそうだった。
田中俊太は諭すように言った。「古崎社長はお客様だよ。一緒に食事して関係を維持するのは普通のことだよ」
「そういう意味じゃなくて…古崎社長は私たちの買ってきた外食に慣れてないと思って」と言いながら、水原明美は古崎正弘に目配せして、この機会に早く帰ってほしいという意思を示した。
しかし、この男は彼女と反対のことをするのが好きで、彼女が帰ってほしければほしいほど、帰りたくなくなるようだった。
「田中さんがそこまで言うなら、ご一緒させていただこう」
こうして、古崎正弘は残ることになった。
10分後、病室の丸テーブルでは三人が囲んで食事をしていた。
静かで気まずい雰囲気になると思っていた。結局、彼女とあの男には話すことなどないはずだった。だが、「触媒」としての田中俊太がいたおかげで予想外だった。
田中俊太は社交的な性格を発揮して古崎正弘に話しかけ、時折水原明美の過去の話をした。
古崎正弘は彼女の学生時代についてほとんど知らなかったので、田中俊太が話し始めると興味を示した。
そして食事の間、田中俊太は滔々と彼女の過去を暴露し始めた。運動会で走って転んだこと、文化祭で歌がずれたこと、専門科目で落第したことなど、すべてさらけ出された。
そう、これでまたあの男は彼女の弱みを握ることになった。
食事がほぼ終わったころ、水原明美の携帯が鳴った。大家からだった。
「水原さん、先月の家賃はいつ払うつもりですか?まさか来月まで引き延ばすつもりじゃないでしょうね!」
「大家さん...そんなに怒らないでください。家賃は必ず期日通りに支払いますから」
「いつ払うんですか?立派な弁護士さんなのに何度も遅れているじゃないですか...」
その後30秒ほど、大家さんは電話で様々な皮肉や脅しを言い、家賃を払わなければ追い出すとまで言った。幸い水原明美は今仕事があったので、それを担保にして、なんとか大家さんをなだめた。
電話を切ると、水原明美は深く息をついた。気づかないうちに、隣から深い眼差しが彼女を見ていた。
彼女はそれに気づき、振り向くと古崎正弘だった。彼は頭を振りながら眉をひそめて彼女を見ていた。その目は、哀れな落ち込んだ子犬を見るようだった。
彼女は不満そうに言った。「古崎社長、なぜそんな目で見るんですか」
「いつからそんなに惨めな暮らしをしてるんだ?」
「これもあなたのおかげでしょ」
破産、仕事の喪失、すべては彼のせいだった。
彼は一瞬怯んだように見えたが、すぐに反応した。しかし、この男は自尊心が強く、たとえ自分が間違っていると分かっていても認めないだろう。そもそも自分が間違っているとは思っていなかった。
「それはお前の自業自得だ」彼は冷たく言い、水原明美が反論する前に立ち去った。
病院の一階の廊下には消毒薬の匂いが漂っていた。
古崎正弘がエレベーターで降りてくると、助手の井口隆二がすでに出迎えていた。
「古崎社長、会社にお戻りになりますか?」
「ああ、会社にはまだ山ほど仕事がある」
水原明美を助けるために多くの仕事を後回しにしていたので、戻ったら徹夜で仕事をしなければならなかった。
しかしそのとき、彼の腕に鋭い痛みが走り、上着から真っ赤な血が染み出した。
井口隆二は驚いて、急いで彼を支えた。「大丈夫ですか?」
「大丈夫だ」古崎正弘は右腕を見下ろした。これは水原明美を救った時の傷で、包帯を巻いた後にまた開いてしまったようだ。
病室で彼女を抱えてトイレに連れて行った時に開いたのだろうが、大したことはない。
しかし、古崎正弘が大丈夫だと思っても、井口隆二には天が崩れ落ちるほどの大事だった。
「すぐに医者に診せましょう。傷が感染したら大変です!」
「社長は会社の柱です。何かあれば、会社全体が回らなくなります」
「お願いします、古崎社長!」
...
井口隆二は熱い鍋の上の蟻のように、不安そうに動き回った。
井口隆二の懇願に負けて、古崎正弘は再び病院に戻って包帯を巻き直すことにした。
包帯を巻き直した後、井口隆二が一つの件を報告した。
「古崎社長、以前水原さんをはねた容疑者はすでに刑務所に送られました。この件はこれで終わりにしますか?」
「まだだ」古崎正弘は鋭い声で言った。「このまま終わらせるには、彼女には甘すぎる」
あの母親は復讐のために車ではねたのだ。彼女が復讐するなら、俺も復讐する!
水原明美は彼にとって最も大切な人だ。彼以外の誰も彼女を傷つけることは許さない。
「井口隆二、手配してくれ。容疑者に会いたい」
「かしこまりました、社長」
「それから...水原明美の病室を変えてくれ。古崎家のプラチナ病室に入れてやれ」
プラチナ病室とは、市立病院が一部の特権階級のために用意した部屋で、一流の医師、設備、薬が揃っていた。
古崎家では、古崎正弘と直系親族だけがそこに入る資格があった。
古崎社長はやはり水原さんのことを気にかけているんだな。井口隆二は心の中でそう思いながらうなずいた。「わかりました。手配いたします」
























































