第1章 アルバイト
「ミオちゃん、ちょっと手が離せなくて。303号室の患者さんのガーゼ交換、代わりにお願いできる? 簡単な処置だから」
看護師長の声が飛んだ。
「はい、分かりました」
速水ミオは快活に応じ、きびすを返して303号室へと向かう。
その小気味よく弾む背中は、見るからに機嫌が良さそうだ。
鼻歌交じりに病室へ足を運びながら、ミオの頭の中は、今日のバイト代が入ったら念願だったオーダーメイドのブレスレットを買う計画でいっぱいだった。
自分への二十歳の誕生日プレゼントだ。
「失礼します、ガーゼの交換に参りました」
ミオは静かにカーテンを開けた。師長からは、この部屋の患者は騒音を嫌うため、くれぐれも丁重に、かつ手短に済ませるようにと釘を刺されていた。
しかし、その顔を見た瞬間、ミオは雷に打たれたような衝撃を受けた。
病床に横たわっていたのは、完璧という言葉すら陳腐に感じるほどの美貌の持ち主だった。
冷ややかで気高く、まるで創造主が丹精込めて作り上げた最高傑作のようだ。
ミオは息をするのも忘れ、我に返ってから慌ててマスクの位置を直し、努めてプロの顔を作った。
「ご協力お願いします」
男はミオを一瞥することもなく、無造作に布団を跳ね除けた。
次の瞬間、シュッという衣擦れの音と共にズボンを引き下ろす。
「えっ――!」
ミオは反射的に視線を逸らし、素っ頓狂な悲鳴を上げた。な、なんなのこの人? 露出狂か何か?
「初めての交換でもなかろうに、何を騒いでいる」
男の不機嫌そうな声が降ってくる。
ミオが恐る恐る視線を戻すと、引き締まった蜜色の太腿に長い包帯が巻かれているのが見えた。包帯は太腿の付け根にまで達している。
なんで師長さんは教えてくれなかったのよ!?
ミオは内心で頭を抱えつつ、男に不審がられる前に愛想笑いを浮かべた。
「す、すみません、あまりに急に脱がれたものですから」
ミオは彼に座るよう促し、自分はしゃがみ込んで処置の準備を始めた。
黒崎統夜は、眼前のナースちゃんを値踏みするように見下ろした。長い睫毛を瞬かせ、懸命に薬の準備をしている。
だが、彼女は肝心なことを忘れているようだ。
「先に包帯を解くのが順序じゃないか?」
黒崎統夜がゆっくりと問いかけ、その視線でミオを射抜く。
ミオはハッとして顔を上げ、慌てて謝罪した。
「も、申し訳ありません」
すぐに包帯を外しにかかるが、視線はどうしても見てはいけない場所へと吸い寄せられてしまう。
布団の端が際どい部分を隠しているものの、そのせいで余計に想像力を掻き立てられるのだ。
生まれて二十年、男性と手をつないだことすらないミオの手は小刻みに震えていた。
視線を逸らし、横目で手元を確認しながら作業を進めるが、震える小指が不運にも男の傷口に触れてしまう。
黒崎統夜の眉間に深い皺が刻まれた。こいつは怪しい。
彼はとっさにミオの手首を掴み、ドスの利いた声で詰問した。
「誰の差し金だ?」
「師長さん……?」
ミオは痛みに顔を歪め、手を引っ込めようとする。
男の目が剣呑に光り、もう片方の手がミオのマスクに伸びた。
素顔を晒される寸前、ミオは彼の手を振りほどき、脱兎のごとく病室から逃げ出した。
黒崎統夜の顔色は陰鬱そのものだった。即座にアシスタントへ連絡を入れる。
「すぐに退院の手続きをしろ」
一方、本能のままに逃げ出したミオは、人気のない廊下の隅で肩で息をしていた。心臓が早鐘を打っている。
あの人、怖すぎる。顔は見られなかったよね? ていうか、薬の交換できてないけど師長さんに怒られるかな? 今日のバイト代、大丈夫かな?
あれこれ悩み抜いた挙句、ミオは師長と顔を合わせる勇気が出ず、体調不良を理由に早退することにした。
その足で貯金を切り崩し、自分への慰めに手首飾りを購入した。
華やかなネオンが灯るS市の夜。
市内最高級のクラブ『オブリビオン』の中で、速水ミオはタイトなベストに身を包み、喧騒の中を慣れた足取りで行き来していた。
インカムからチーフの声が飛ぶ。
『最上階の101に酒を二本入れてくれ。別のバイトが飛んだから稼ぎたいって言ってたろ? こいつのバックだけで二ヶ月分の給料になるぞ』
「了解です!」
ミオは気合を入れ直し、ボトルを手に取った。
最上階はVIP専用のプライベートエリアで、下の喧騒が嘘のように静まり返っている。
ミオは礼儀正しくノックをした。数秒後、扉が開く。
「お客様、ご注文の――」
言葉を紡ぐ間もなく、強烈な力で部屋の中へと引きずり込まれた。
室内は闇に包まれており、男の顔は見えない。聞こえるのは荒い息遣いと、漂う濃厚な酒の匂いだけだ。
ミオは恐怖に駆られ、手足をバタつかせて必死に抵抗した。だが、それがかえって男の興奮を煽ってしまったようだ。
不意に唇を塞がれる。その瞬間、懐かしさと違和感が入り混じった香りがミオの鼻腔をくすぐった。
この匂い……どこかで嗅いだことがあるような?
ミオが一瞬呆けている隙に、男は蛇のように彼女に絡みついてきた。
卓越したキステクニックに、恋愛経験皆無のミオはなす術もない。背筋が痺れ、全身から力が抜けていく。
男の逞しい腕が腰を支えていなければ、その場に崩れ落ちていただろう。
「ちょっ、どこ触ってるんですか!」
ミオは身を強張らせた。男の指が太腿の間に侵入してくる。彼女は必死で抵抗した。
「離して! あなた今、酔ってますよ。ボーイを呼びますから……」
男の体温は異常なほど高い。彼はミオの両手首を片手で制圧し、太腿で彼女の脚を押し開いた。
「お前が相手すればいいだろう? 俺のテクニックは悪くないはずだ……」
その掠れた声はまるでサタンのように甘く、ミオを惑わせる。
男のキスが再び津波のように押し寄せ、ミオの思考回路は焼き切れたようだった。
無骨な指が蜜壺に侵入し、焦らすように広げていく。唇も休むことなくミオの身体を愛撫し、高い鼻梁が鎖骨から胸元へと滑り落ちる。愛蕾が震えながら硬く尖った。
下腹部からの異物感はすぐに未知の快感へと変わり、ミオは上下ともに攻め立てられて陥落寸前だ。
頭を押しのければ指がさらに深く入り込み、手を止めようとすれば唇が執拗に胸を弄る。
「女にここまで時間をかけるのは珍しいんだ。お前は例外だ」
男が指を引き抜くと、銀色の糸がとろりと引いた。彼は低く笑う。
「だいぶ感じているようだな」
「……終わった、の?」
ミオは朦朧とした意識で問いかけた。
「まさか。これからが本番だ」
その一言で、ミオの理性が現実に引き戻された。
慌てて起き上がろうとする。
「チーフが呼んでるんで、私……あっ!」
艶めかしい嬌声が喉から漏れた。自分の声とは信じられない。
男が何の前触れもなく貫いてきたのだ。しかも、その凶器はさらに一回り大きくなったように感じる。
男は低く唸り、爆発しそうな衝動を抑え込んだ。
「じらしプレイか? 悪くない。たっぷりと可愛がってやる」
腰を引いた男が、勢いよく最奥まで突き上げる。
ミオは瞬時に絶頂へと達し、太腿で男の腰を締め上げながら激しく痙攣した。
脳天を突き抜けるような快感が全身を走る。
愛液が男の剛直を濡らし、彼は快楽に喘ぎながらも、最深部を抉るように腰を回した。
「体力は温存しておけ。夜はまだ長い」
その言葉通り、行為は朝まで続いた。
午前五時。喉の渇きで目を覚ましたミオは、寝ぼけ眼で水を探そうと手を伸ばし――逞しい胸板に触れた。
不思議そうに二、三度撫でてみて、ハッと覚醒する。
恐怖に駆られた彼女は、適当に服を拾い集め、スマホを掴んで逃げるように部屋を後にした。
午前六時。
黒崎統夜は微睡みの中で目を覚ました。太腿の付け根に走る鈍い痛みが意識を鮮明にする。
隣の冷え切ったシーツと散乱した痕跡を見て、彼の表情は修羅のごとく凍りついた。即座にアシスタントへ電話をかける。
「ある人物を特定しろ」
しばらくして、アシスタントからの報告が入る。
『顔の半分を隠していたため特定は困難ですが、彼女は薬局に立ち寄っています』
「何のために?」
『……HIVの予防薬を購入したようです』
黒崎統夜は一瞬絶句し、次いで冷ややかな笑みを浮かべた。
「いい度胸だ。地の果てまで追いかけてでも探し出せ!」
電話を切った彼の手が、シーツの下にある硬い感触を捉えた。
取り出してみると、それは趣味の良いブレスレットだった。
彼はそれをきつく握りしめる。見つけ出したら、ただでは済まさない――。
