第2章

私は驚いて彼を見つめた。

「そこにいたの?」

「今まで聴いた中で、一番美しいショパンのノクターンだった」

薬のせいか、彼の瞳は危うい炎を宿して燃えている。

「あの日以来、ずっとあのピアニストを探していたんだ」

心臓が激しく高鳴る。

「もう一度……聞かせてもらえないか?」

抑えた切望を乗せた声で、彼が尋ねる。

私は頷き、ピアノへと歩み寄った。指が鍵盤に触れた瞬間、聴き慣れた旋律がギャラリーに流れ出す。

でも、今度は何かが違った。

彼の燃えるような視線が、私に突き刺さるのを感じる。その強烈な眼差しに、全身が熱を帯びていく。指先から紡がれる音楽は震え、今まで感じたことのない感情を乗せていた。

「美しい……」

最後の一音が消えると、彼が囁いた。私の背後に回り込み、耳元に柔らかな声を落とす。

「この瞬間を、ずっと待っていた……」

肩に触れた彼の手は、燃えるように熱い。彼が自分を抑えようと葛藤しているのが伝わってくる。けれど、薬が彼の理性を少しずつ蝕んでいく。

「……抱きしめても、いいか?」

彼の声は震えていた。

振り返ると、海のように深い瞳と視線がぶつかった。その瞳の中には、欲望と、理性と、そして心を揺さぶるような優しさが見えた。

彼はそっと私を腕の中に引き寄せ、それからピアノにゆっくりと私を押し当てた。薄い布地越しに伝わる彼の燃えるような体温に、溶かされてしまいそうになる。

「君が私にとって、どれだけ危険な存在か分かっていないだろう」

耳元で囁かれ、首筋に熱い吐息がかかる。

次の瞬間、彼は私にキスをした。

そのキスは軽く優しく、けれど抑えられた情熱を秘めていた。まるで世界で最も尊い宝物に触れるかのように。私は目を閉じ、この未知の感覚に身を委ねた。

「おやおや……」

聞き覚えのある声がギャラリーの入り口から響き、その美しい瞬間を粉々に打ち砕いた。

はっと目を開けると、そこには腕を組み、悪戯っぽい笑みを浮かべて戸口に寄りかかる三上海里の姿があった。彼の後ろには荻野琥珀とその友人たちが数人、面白い見世物でも見るような表情で立っている。

「みんないなくなったと思ったら、こんなところで『芸術鑑賞』としゃれこんでたわけか」

三上海里はゆっくりと中に入ってくると、私たち二人を値踏みするように見渡した。

隣にいる男性から身を離そうとしたが、彼は私の手をそっと握り、離してはくれなかった。

「意外だな、結城凪紗」

三上海里の声には、危険な面白みが含まれている。

「ウェイターと話すだけで赤くなるような子が、ずいぶんと良い場所を選ぶじゃないか」

「三上……海里……」

私の声は震えた。

「ちっ」

荻野琥珀が、馬鹿にしたように首を振りながら近づいてくる。

「清純派のピアノの女神様らしからぬ姿ね。さっきの顔、ずいぶん……気持ちよさそうだったじゃない?」

その言葉は毒のように心に染み込んだ。

「そういえば結城凪紗」

三上海里の友人の一人が口を開く。

「このお兄さんには言ってないことがあるんじゃないか?先月、三上海里のオフィスで、復縁を懇願して泣きついてたこととか」

顔からサッと血の気が引いた。

「ああ、そうそう」

別の誰かが同調する。

「なんて言ってたっけ?『私、変わるから。もっと面白い女になるから』――それを今、俺たちに証明してくれてるってわけ?」

彼らの言葉は刃物のように、私の一番痛いところを抉ってくる。

息ができない。逃げ出したいのに、足は鉛のように重い。この追い詰められた感覚は、三年前、初めて三上海里に酷評された時と同じ――どうしようもない無力感だった。

「それにしても」

三上海里はさらに近づき、その声は侮蔑の色を濃くしていく。

「こんなに……積極的な結城凪紗は初めて見たな。見くびってたぜ――環境を変えれば、人も変わるってか?」

環境を変えれば、人も変わる。

その言葉は、雷のように私を打ちのめした。辛い記憶が一気によみがえる――

「お前は内向的すぎるんだよ、結城凪紗。荻野琥珀を見ろ、彼女がどれだけ場を盛り上げているか」

「俺に必要なのは、社交の場に付き合える彼女であって、置物じゃない」

「いつもいつも、そんなに堅苦しいのやめられないのか?時々、お前はどこかおかしいんじゃないかと思うよ」

これらは全て、かつて彼が私に言った言葉だ。そして今、彼はその同じ口で、まったく逆のことを言っている。

「どうした、黙り込んじゃって?」

荻野琥珀が皮肉を言う。

「さっきはずいぶん表情豊かだったじゃない」

「恥ずかしいんだろ」

三上海里の声は嘲笑に満ちていた。

「なんせ、『演奏』中に見られるのは初めてだろうからな」

涙が目に滲んできた。世界がぐるぐると回り、あの息が詰まるような感覚が戻ってくる。

しかしその時、隣にいた男性が突然口を開いた。

「もういい」

その声は穏やかだったが、凍えるような冷たさを帯びていた。彼の体温は依然として燃えるように熱いのに、声だけが不自然なほどに落ち着いている。

そのギャップに、私は衝撃を受けた――薬の影響下にあるというのに、まだ私を守ろうとしてくれている。

「旦那さん、これは俺たちのプライベートな問題でして……」

三上海里が口を開きかける。

「プライベートな問題?」

男は低く笑い、ゆっくりと彼らに向き直った。私を抱き寄せたまま、その気配が瞬時に変わる。

彼の全身から放たれる雰囲気が、冷たく危険なものへと変貌した。彼から発せられる恐ろしいほどの威圧感に、私自身さえも身震いする。

「公共の場で、一人の女性を寄ってたかって詰る――それが君たちのプライベートな問題か?」

彼の視線が、その場にいた一人一人を射抜く。彼らは皆、本能的に一歩後ずさった。

視線だけで人を怯えさせる人間など、見たことがない。この男性は、一体何者なのだろう?

「君たちの素性は知らんが」

男の声は危険な響きを帯びる。

「これ以上、一言でも無礼な口を利いてみろ……」

彼は携帯を取り出し、何気ない口調で言った。

「牧村敬か?俺だ。三上広報会社について、詳細な身元調査をしろ」

その名前をこともなげに口にしたのを聞いて、三上海里の表情が瞬時に変わった。

「それから、荻野さん。君の父親の不動産会社は、今、融資の申請中だったな?」

荻野琥珀は完全に凍りついた。

場は、水を打ったように静まり返る。

誰もが、絶対に手を出してはいけない相手を怒らせてしまったのだと悟った。

彼の隣に立つ私は、驚きで言葉もなかった。この男性は……一体何者なの?どうして、私のためにここまでしてくれるの?

屈辱的な絶望から、守られるという驚愕へ。そのあまりに大きな感情の揺さぶりに、涙が出そうになる。

「今すぐ、出て行け」

男の声は、氷の刃のように鋭い。

「もし二度と、この女性に嫌がらせをする姿を見かけたら、その時は相応の覚悟をしてもらう」

三上海里はごくりと唾を飲み込み、何か言いたげだったが、結局何も言わなかった。彼は荻野琥珀の腕を掴み、出口に向かい始める。

「待て」

男が再び声をかけた。

全員がその場で凍りつく。

「彼女に謝れ」

たった四文字の言葉が、抗うことのできない権威を帯びていた。

三上海里の顔は真っ赤に染まったが、男の氷のような視線に射抜かれ、ついに私の方を向いた。

「す、すまなかった、結城凪紗」

その声はか細い囁きだったが、静かなギャラリーの中では、誰の耳にもはっきりと届いた。

「消えろ」

一言。三上海里たちは、まるで大赦でも受けたかのようにギャラリーから逃げ出していった。

前のチャプター
次のチャプター