第3章
足音が完全に遠ざかってから、男がゆっくりとこちらを振り向いた。けれど、彼の容態が著しく悪化していることに、私は気づいてしまった。
さっきまでの紅潮は消え、顔は死人のように真っ青になり、額には大粒の冷や汗が浮かんでいる。その体はふらふらと揺れていて、今にも倒れてしまいそうだった。
「もう、大丈夫だ」
彼はどうにかそう言ったが、その声は震え始めていた。
「もう誰も君を傷つけたりしない」
もう我慢できなかった。涙が頬を伝って流れ落ちる。こんな風に私のために何かをしてくれた人なんていなかった。こんなに安心させてくれた人なんて、今まで誰もいなかった。
「どうして……」
私は声を詰まらせた。
「どうして、私のためにこんなことを?私のこと、何も知らないのに……」
彼は私の頬の涙を拭おうと手を伸ばしかけたが、その腕はひどく震えていて、ほとんど上がらなかった。
「だって……」
彼は苦痛に目を閉じ、声がかすれていく。
「あんな扱いを受けるべき人間なんていない……特に、君のように美しい人は」
突然、彼が前のめりに倒れ込んできた! 私は悲鳴を上げて、慌ててその体を支える。彼の体温は恐ろしいほど高く、窒息しそうなほど速く、浅い呼吸を繰り返していた。
「どうしたんですか!?」
私はパニックに陥った。
「薬が……思ったより、強い……」
彼は苦痛に歯を食いしばり、ほとんど全体重を私に預けるようにして言った。
「十年だ……十年間、誰の音楽も、こんなふうに私を落ち着かせてはくれなかった……」
十年? 私は思い出した。先生が言っていた、音楽には癒やしの力がある、と。さっきショパンのノクターンを弾いたとき、彼は確かに落ち着きを取り戻していた。
「救急車を呼びます!」
私は必死でスマートフォンに手を伸ばした。
「だめだ!」
彼はありったけの力で私の手をつかんだ。その瞳は懇願するように、必死に私を見つめている。
「頼む……弾き続けてくれ。君の音楽だけが、私を救える。病院に行ったら……情報が漏れる……」
彼の苦しむ姿に、胸が締め付けられるようだった。私は迷わず、すぐに彼をピアノの椅子に座らせ、その隣に腰を下ろした。
今度は、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番を選んだ。私の心は、怒り、痛み、感動、そして言葉にできないときめきといった、複雑な感情で満たされていた。
激しく、荒々しく、力強い旋律が指先から流れ出す。すると、奇跡のようなことが起こった。彼の呼吸が、本当に穏やかになっていったのだ。苦悶に歪んでいた表情も、ゆっくりと和らいでいく。
「信じられない……」
彼は弱々しくも興奮した声で言った。
「知ってるかい? 私が十年前、ピアノを習い始めたのは、この曲を聴いたからなんだ」
指の動きは止めなかったが、私は驚いて彼を見つめた。
「いつか、この曲を私と同じように理解してくれる人に出会えたら、どんなに素晴らしいだろうって、その時思ったんだ」
彼の声は震えていたが、それはもう苦痛からではなく、興奮からだった。
「十年だ。十年ピアノを学んで、私の魂と共鳴してくれる人を待っていた」
魂の共鳴……その言葉は、私の心に衝撃を与えた。三上海里との三年間、彼は一度も私の音楽を理解してくれなかった。それどころか「役立たずの騒音」とまで言ったのに。
私の演奏は次第にゆっくりとなり、最後は優しい音色で終わりを告げた。
「私も……」
私の声も震えていた。
「こんなに、私の音楽を理解してくれた人はいませんでした」
視線が絡み合う。空気がびりびりと震えるような緊張感に包まれた。彼の瞳は炎のように燃え上がり、私の心臓を激しく高鳴らせる。
「改めて、自己紹介をさせてほしい」
彼は私を深く見つめ、厳かな声になった。
「西園寺律崎だ」
西園寺律崎!?
私は鍵盤に手を叩きつけてしまい、耳障りな不協和音が鳴り響いた!
西園寺律崎! L市のテック界の帝王! 28歳で一代にしてビジネス帝国を築き上げた伝説の人物!資産数千億の天才技術者!
あまりの衝撃に言葉も出ず、私はピアノの前で凍り付いてしまった。
「ああ、君が考えている西園寺テクノロジーの、その西園寺だ」
彼は苦笑いを浮かべて言った。
「だが今夜は……今夜だけは、君の音楽に深く心を動かされた、ただの男でいたい」
なんてこと! ただのピアノ教師の私が、L市で最も権力を持つIT界のトップと……。
「わ、私は……結城凪紗です」
私はどもりながら、かろうじて囁くように言った。
「ただの、普通の……」
「違う」
彼は不意に手を伸ばして私の頬に触れた。その声は低く、それでいて有無を言わせない響きを持っていた。
「君は、私の魂を救えるピアニストだ。今夜から、私だけのために弾いてくれないか?」
私が答えるより先に、彼は私にキスをした。
そのキスは、さっきよりも深く、情熱的だった。彼の燃えるような体温と荒い息遣い、そしてその中に込められた、慎重で、宝物のように扱う優しさを感じた。理性が「正気じゃないよ、こんなの」と告げているのに、この魂の繋がりを前にして、私は抵抗しなかった。それどころか……応えてしまった。
私たちが深くキスを交わしている、まさにその時だった。突然、カシャッという微かなカメラのシャッター音が聞こえたのだ!
私たちははっと離れ、音のした方へ振り向いた。ギャラリーの通用口に、サーバーの制服を着た若い男がスマートフォンを構えている――明らかに、今写真を撮ったのだ!
「くそっ!」
西園寺律崎の表情が一瞬で氷のように冷たくなった。
サーバーは見つかったことに気づき、慌てて逃げようとした。
「待て!」
西園寺律崎の声が雷鳴のように轟き、その生まれ持った威圧感がサーバーをその場に凍りつかせた。
「スマホを渡せ」
彼は冷たく言い放ちながら、素早く自分のスマートフォンを取り出して電話した。
「牧村敬、すぐに美術館のピアノギャラリーに来い。盗撮した奴がいる」
心臓が激しく脈打っていた。盗撮? もしこの写真が流出したら……。
「西園寺さん、お、俺は悪気は……」
サーバーがどもりながら言った。
「悪気がない?」
西園寺律崎はゆっくりと彼に歩み寄った。そのオーラはギャラリー全体の温度を数度下げたように思えるほどだった。
「人のプライベートな瞬間を盗撮しておいて――それを悪気がないと言うのか?」
その時、ギャラリーの外から足音が響き、数人の美術館スタッフと警備員が慌てて駆け込んできた。
「西園寺様!」
先頭にいた中年男性は恐怖に顔を引きつらせていた。
「大変申し訳ございません、ただちに対応いたします……」
明らかに、美術館の幹部でさえ彼を知っていた。
私はピアノのそばでその一部始終を見つめながら、自分が一体どんな男に出会ってしまったのかをはっきりと悟った。これはただの金持ちではない――権力の頂点に立つ人間だ! 電話一本で、美術館の全スタッフを駆けつけさせることができるのだ。
「写真は削除させ、スマートフォンは没収いたしました」
美術館の支配人がへりくだった様子で報告した。
「当該従業員は即刻解雇いたします。情報が一切漏洩しないことを保証いたします……」
「不十分だ」
西園寺律崎の声は氷のように冷たかった。
「彼には一億の違約金付きの秘密保持契約書にサインさせる」
一億!私は息を呑んだ。私の名誉を守るために、そんな天文学的な額の違約金を設定するなんて!
すべてを処理し終えた後、西園寺律崎は私の元へ戻ってきた。その表情は一瞬で柔らかくなっている。
「見苦しいところを見せてすまなかった」
その時、彼自身のスマートフォンが激しく振動し始めた。彼がちらりと画面を見ると、すぐに真剣な顔つきになった。
「西園寺様」
電話の向こうから、離れていても聞こえるほどの切羽詰まった声がした。
「重大な危機が発生し、株価が15%も暴落しました。取締役会が、ただちにご対応を求めております……」
彼の表情が一気に重くなるのが見えた。ビジネス帝国を経営するプレッシャー――私のような一般人には決して理解できないものだ。
「すぐに行く」
彼は電話を切り、名残惜しさと苦痛に満ちた瞳で私を見た。
「すまない、行かなければ……」
「わかります」
私は心に満ちる失望を押し殺し、無理に微笑んだ。
「お仕事が第一です」
だが、彼はすぐには立ち去らなかった。それどころか、焦ったように私に近づき、両手で私の顔を包み込んだ。
「番号を教えてくれ」
「え?」
「君の電話番号だ」
彼の声には、ほとんど必死とも言える切実さがこもっていた。
「今夜のことを、ただの美しい偶然で終わらせるつもりはない。結城凪紗、君を本気で口説きたい。外の世界がどんな障害を投げかけようと、どれだけ多くの人間が反対しようと、私は君を追いかける」
その言葉に、心臓が胸から飛び出しそうになった。本気で口説く? この世界で最も優れた男性が、私を?
私は震える手で彼に番号を伝え、彼がそれを慎重にスマートフォンに入力するのを見つめた。
「明日、連絡する」
彼は私の目を深く見つめ、その声は誓いの重みを持っていた。
「約束だ」
そう言って、彼は私の額に優しくキスをし、大股でギャラリーを出て行った。
私はその場に立ち尽くし、彼の姿が戸口の向こうに消えていくのを見送った。心は感情の嵐でかき乱されていた。
今夜のすべてがあまりにも非現実的だった。あの盗撮、美術館の幹部たちのへりくだった態度、そしてビジネス界全体を揺るがすようなあの電話……。
私のような普通の女の子が、本当に彼の世界に入っていけるのだろうか?
