第2章
ロールス・ロイスの内装は芸術品そのものだった。雲のように柔らかい革のシート、ほのかに香るシダーウッドの匂い。私は隅に縮こまり、ずぶ濡れの服が高価な革張りに染みを作っていくのをなすすべもなく見つめていた。
藤原悟は書類に目を通し、時折、金のペンで何かを書きつけている。その集中の様は息が詰まるようで、さっき私を車に招き入れた穏やかな男は、まるで存在しないかのようだった。
これが、違いなのだ。
和也は会議中いつも上の空だった。スマートフォンをこっそり見たり、人の話を途中で遮ったり。だが目の前のこの男は、ただ書類に集中しているだけで、殺人的なほどの引力を放っていた。
十分後、彼はファイルを閉じ、私に向き直った。深い瞳が、薄暗い車内の光を反射して黒曜石のようにきらめき、人を惑わせる。
……なんて、イケメンなんだろう。
和也のような、いかにも作り込まれた美少年風の容姿ではない。シャープな顎のライン、完璧な鼻筋、そしてすべてを見透かすようなあの瞳、成熟した男性だけが持つ、危険な魅力だ。
「単刀直入にいきましょう、水原さん。あなたのことは調査済みです」彼の声は低く、磁力を帯びていた。「D大映像学部を首席で卒業。アシスタントの給料で、和也の企画のために三年間、身を粉にしてきた」
私は目を見開いた。「どうして、それを……」
「まま.......」彼はかすかに微笑んだ。その微笑みは、和也がこれまで見せたどんな表情を合わせたものよりも、破壊的な力を持っていた。「自社の本当の状況を把握するのは私の仕事です。特に、真の才能がどこに埋もれているかはね」
彼は私にタブレットを差し出した。画面には比較画像が表示されている。私のオリジナルの企画書と、和也が提出したバージョン。
「『西海岸の声』はあなたのコンセプトだった。脚本『日通り』を三度も書き直したのもあなた。彼がテレビ賞にノミネートされた時のスピーチでさえ……」悟は言葉を切り、燃えるような視線で私を射抜いた。「あなたのおかげで」
三年間分の悔しさと怒りが、熱い塊となって喉元までせり上がってくる。息をするのも苦しいほどだった。
誰かが見ていてくれた。誰かが真実を知っていた。
「なぜ、私にそんな話を?」私の声はわずかに震えていた。
「才能の無駄遣いが嫌いだからです」彼の口調は低く、断固としていた。「そして、五条和也のような詐欺師が、私の会社の評判を食い物にするのが我慢ならない」
彼が身を乗り出すと、その強烈な存在感に飲み込まれそうになる。本物のアルファが放つ圧倒的な支配力というものを、私はこの瞬間、初めて理解した。和也など、彼に比べればまるで子供だ。
「あなたに、復讐のチャンスを差し上げたい」
「復讐?」
「六ヶ月。あなたを完璧に変身させる。最高の栄養士、最も厳しいトレーナー、プロのスタイリングチーム。あなたは五条和也が一生かかっても手の届かない女になる」
心臓が雷のように激しく打ち鳴らされる。「なぜ、あなたが私を?」
悟は静かに私を見ていた。その瞳の奥で、測り知れない何かが揺らめいている。「あなたに、私のためにやってほしいことがあるからです」
不吉な予感が全身を駆け巡った。「……何でしょう?」
「私の婚約者になってほしい」
彼の視線が、まるでレントゲンのように、全身を遠慮なく撫で回した。完全に見透かされているという感覚に、全身の筋肉が強張り、血が逆流する。
この男は、危険すぎる。
和也に見られる時は、無視されることへの怒りを感じた。けれど、悟にこうして見つめられると、まるで美術品を鑑定されているようだ。専門的で、徹底的で、頬を火照らせ心臓を早鐘を打たせるような、独占欲を伴って。
侮辱された、モノ扱いされたと感じるべきなのだろう。
けれど不思議なことに、私は……彼がどんな結論を下すのかを期待している自分がいた。
「あなたには、私が必要とするすべてが揃っている。才能、しがらみのない家族構成、そして五条和也への燃え上がったばかりの憎しみ」
「なぜ私なんですか?あなたなら、偽の婚約者なんていくらでも見つかるでしょう」
悟はそっと私の顎に手を添え、顔を上げさせて視線を合わせた。彼の瞳は底なしで、私の魂の奥底まで見通そうとしているかのようだ。
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
和也は、こんな風に私を見たことなんて一度もなかった。彼の視線はいつもどこか彷徨っていて、気のないもので、まるで私が背景の一部であるかのように。
けれど、悟の眼差しは、私がこの宇宙の中心であるかのように感じさせた。
「君は、着飾るだけの社交界の女たちとは違う」彼は手を離し、契約書を差し出した。「和也を見る目つきが、この役を完璧に演じきるだけの覚悟があることを物語っている」
私はその書類を睨んだ。狂ってる。あまりに非現実的だ。
でも……。
「六ヶ月後、私は自由を手に入れる。あなたは奪われたすべてを取り戻す。統合メディア最年少のプロデューサーになり、五条和也は永遠にあなたの影で生きることになる」
プロデューサー。
私が夢見てきた、その地位。
「断ってもいい」悟の口調が、ふと優しくなった。「その場合は十分な手切れ金を渡そう。西海岸を離れて再出発するには十分な額だ。だが、和也と里奈のことを考えてみなさい……今頃、あなたのことを笑っているだろう」
和也と里奈が私を嘲笑う姿が再び脳裏をよぎる。その怒りが、雨よりも冷たく、屈辱よりも鋭く、再び燃え上がった。
どうして、あいつらだけが?
どうして和也が私の仕事を盗み、里奈が私の男を盗んで、私が逃げなきゃいけないの?
「お受けします」私はペンを取り、サインした。「でも、条件が一つあります」
悟は片眉を上げた。「言ってみなさい」
「六ヶ月後、全社員の前で発表させてください、私が、五条和也をフッたのだと」
悟は低く笑い、その瞳に賛同の光を宿した。「契約成立だ、水原さん。いや……絵里、と呼ぶべきかな」
車が私のアパートの前で停まった。悟が自らドアを開けてくれる。月明かりが彼の横顔を照らし出し、その完璧な造形はまるで命を吹き込まれた彫刻のようだった。
まさか、私がこの人の恋人のフリを六ヶ月も?
「明日の朝七時に、迎えの車を寄越す。新しい人生を始める準備はできたかな、私の婚約者殿?」
私は深呼吸をして、頷いた。雨は止み、夜空には星がいくつか瞬いていた。
「よろしい」彼は私の手を取った。その掌は温かく力強く、濡れた袖を通して熱が肌に染み込んでくる。「覚えておきなさい。この瞬間から、君はもう水原絵里、愛に目がくらんだ愚かな女ではない」
彼の瞳が、暗闇の中で燃えるように光った。
「君は、この藤原悟が選んだ女なのだ」
車が発進し、テールランプが夜の闇に消えていく。
私はその場に立ち尽くし、心臓が野生の獣のように激しく鼓動していた。







