第4章
立花柚月は気を利かせて立ち上がり、席を外そうとした。
だが、西園寺蓮がそれを呼び止める。
「そこに座っていてくれ。電話に出てくる」
彼は立ち上がり、ドアの外へ向かった。
同時に通話ボタンを押す。
電話の相手は、年配の男性だった。
『西園寺様、私を評価してくださるのは光栄ですが、私はすでにメスを置き、執刀からは退いております。必要であれば、私の教え子を推薦いたしますが』
西園寺蓮はドア枠に寄りかかり、淡々とした口調で告げた。
「この手術は、先生でなくては駄目なんです」
『それならば、申し訳ないと言うしかありませんな。あと三ヶ月早ければ、お引き受けしたのですが』
通話を終えると、西園寺蓮はしばし沈思し、七社和也に電話をかけた。
「三日後、R国行きの航空券を取ってくれ」
『あの老教授に会いに行かれるのですか?』
「ああ」
もうメスを置いたと言うのなら、直接会いに行くまでだ。
電話では説得力が足りないというだけのこと。自分が直接出向けば、あの頑固な老人とて断れまい。
『三日後の便はありませんが、明日の便なら空いています』
「後ろにずらせ。この二日間はここを離れられない。他の予定もすべてキャンセルだ」
彼にはまだ、やるべき重要なことが残っている。
ガラス越しに、ソファに座る立花柚月の姿が見えた。彼女はそこに座り込んだまま、やつれた表情で呆然としている。
彼は声を潜めた。
「そういうわけだ、すぐに手配しろ。それと……園田麻衣に連絡を。本人は忘れているようだから、思い出させてやる必要がある。やってしまったことを、なかったことにはできないとな」
『承知しました』
電話を切ると、七社和也はため息をついた。
ボスも、ずいぶんと入れあげたものだ。
西園寺蓮が部屋に戻ると、立花柚月はすぐに彼を見上げた。その瞳には微かな期待が宿っている。
「さっきの話……」
「明日、面白い見世物に連れて行ってやる」
見世物?
立花柚月には意味が分からなかったが、彼の自信に満ちた様子を見て、不思議と心が落ち着いた。
そうだ、目の前にいるのは西園寺蓮なのだ。
彼に不可能なことなどない。
「どうするつもりなの?」
やはり気になって尋ねる。
西園寺蓮は茶を注いで彼女に渡した。
「慌てるな。明日になれば分かる」
その笑みは、どこか意味深だった。
立花柚月は伏し目がちになり、胸の奥で暗い痛みを覚えた。
かつて最愛だった人と敵対することになるなんて、夢にも思わなかった。
その日の夕方、西園寺蓮は出かける支度をした。
立花柚月も同じ車に乗り込んだが、病院の前で降ろされた。西園寺蓮は彼女に言い含める。
「翔を見舞ってくるといい。帰るときに電話をくれ。迎えに来る」
あまりに気配りが行き届いていて、あまりに優しい。
その態度が、かえって立花柚月を戸惑わせた。
「うん、ありがとう」
西園寺蓮は何か言いたげだったが、結局何も言わずに車を出した。
車が遠ざかっていく。
立花柚月が病室に入ると、翔はまだ眠っていた。彼女は言葉を発することなく、ただ静かに寄り添った。そろそろ時間という頃合いになり、介護士もやって来たため、彼女は病院を後にした。
入り口で、迷いながらも西園寺蓮に電話をかける。
『帰るのか?』
スマホ越しに響く声は、低く穏やかだった。
立花柚月の心にあった、彼を煩わせることへの申し訳なさが、ふっと消えていく。
「うん、あのね……」
その時、電話の向こうから女性の声が聞こえた。
『西園寺様、決めました。お受けします』
立花柚月は慌てて電話を切った。
その声には、嫌というほど聞き覚えがあった。
園田麻衣だ。
……
西園寺蓮は通話が切れたスマホを見つめ、目の前の女へと視線を上げた。女の顔には艶やかな笑みが張り付いているが、その瞳の奥には、企みが成功したという優越感が透けて見えた。
「わざとだな」
園田麻衣はきょとんとして見せた。
「何のことか分かりませんわ。私はただ、あなた様の要求を受け入れただけです」
彼女は胸に渦巻く憤りを必死に抑え込んでいた。
この男の前では、わずかな隙も見せてはならないと分かっているからだ。
「大河を説得して記者会見を開かせ、すべての事実を明らかにし、立花柚月の潔白を証明します。ですが、あなた様も約束を守ってくださいね。あのデータは、永遠に消去すると」
「不服そうだな」
西園寺蓮は、彼女の仮面の下にある感情を一瞬で見抜いた。
園田麻衣は奥歯を噛み締め、耐えに耐えた。
「あなた様のような御身分の方が、私のような人間にここまで執着し、あのようなネタで脅迫なさるなんて……不服がないと言えば嘘になります。世間では紳士と噂されていますが、どうやら見当違いのようですわね」
「あんたがどう思おうと、俺には関係ない」
西園寺蓮は彼女の評価など歯牙にもかけず、その視線すら冷淡だった。
端(はな)から彼女を相手にしていないのだ。
「一つだけ覚えておけ。やったことには必ず痕跡が残る。やましいことがなければ、恐れる必要もないはずだ」
そう言い捨てると、彼は席を立った。
目の前に置かれた茶には、最後まで口をつけなかった。
汚らわしい。
品性の下劣な人間と同席していると、空気まで汚染されそうだ。
廊下に出た時、個室の中から陶器の割れる音が響いてきた。
西園寺蓮の唇が、嘲るように歪む。
「黒田大河の女を見る目も、地に落ちたな」
……
帰りの車中、七社和也は納得がいかない様子だった。
「ボス、わざわざご自分で行かれる必要はなかったのでは?」
園田麻衣のような女、ボスが直接会いに行く価値などない。
だが、彼はあえて出向いた。
西園寺蓮は片手で頬杖をつき、切れ長の目を細めて笑った。
「ただの好奇心だ。黒田大河が血迷って妻にしたいとまで思った女が、どんなものか見ておきたかったんだが……会ってみれば、まあ、あんなものか。お似合いだよ」
車が病院の前に止まり、立花柚月が乗り込んできた。
彼女は何も話さず、車内には沈黙が流れた。
西園寺蓮から口を開く。
「何も聞かないのか?」
膝の上に置かれた立花柚月の手が、ぎゅっと握りしめられる。
「……ううん」
彼女は自分に言い聞かせた。
西園寺蓮が、これほど悪名高い厄介者である自分を受け入れてくれただけで十分だ。
聞く資格なんてない。たとえ西園寺蓮と園田麻衣の間に何があったとしても、それは彼の事情だ。
そう思うことで、胸の痛みを麻痺させようとした。
その時、頭上に大きな掌が乗せられた。
彼女は驚いて顔を上げる。
西園寺蓮の低い声には、微かな呆れと優しさが混じっていた。
「いつからそんなに臆病になった?」
「聞きたいことがあれば聞け。知りたいことなら全部教えてやる。ただし、あんたが口にすればの話だ」
「……どうして、園田麻衣の声がしたのか知りたい」
立花柚月は気付いた時には、言葉にしていた。
後悔はしていない。
やはり気になって仕方がないのだ。
嫉妬ではない。西園寺蓮は今や翔の命綱だ。もし彼まで園田麻衣に籠絡されてしまったら……。
その先のことを考えると、恐怖で足がすくみそうだった。
西園寺蓮は淡々と言った。
「前に約束しただろう。あんたの汚名をそそぐと」
立花柚月は目を見開いた。
「私のために?」
西園寺蓮は彼女を見つめた。その顔立ちは相変わらず美しいが、頬の傷跡は白磁の肌に入った亀裂のようで、痛々しく、見る者に衝撃を与える。
反対側の顔は、かつて『天使』と謳われた頃のままなのに。
「なんだ、その顔は」
立花柚月は反射的に顔を背け、右頬の傷を隠そうとした。
とっくに慣れたはずだった。
けれど今、どうしようもない劣等感が押し寄せてくる。
まるで、この傷が西園寺蓮の瞳を汚しているかのような気がして。
西園寺蓮は言った。
「明日はめいっぱい着飾っておけ。重要な舞台だ」
立花柚月には意味が分からなかった。
だが翌朝、七社和也が新しいドレスとメイクアップアーティストを連れて現れた。そのメイク担当は業界でも有名な大家で、今の立花柚月には到底雇えないレベルの人物だった。
「立花様はお綺麗ですわ。卑下なさらないで、私にお任せください」
メイク担当は自信たっぷりに微笑んだ。
彼女の『魔法の手』にかかれば、どんな欠点も隠せる。
支度が整い、鏡を見た立花柚月は息を飲んだ。
これが、私?
出かける間際、彼女はたまらず西園寺蓮に尋ねた。
「私たち、一体どこへ行くの?」
西園寺蓮は短く答えた。
「記者会見だ」
