第1章

 スマホの画面に表示された、匿名掲示板『港区タワマン生活板』の新しいスレッドが、やけに目に刺さる。

【タイトル】隣の夫婦の夜の声がデカすぎて迷惑なんだが(笑)

>>1[匿名さん]

 マジで耐えられない。

 隣のいかにもエリートですって顔した夫婦、毎晩変な声が聞こえてくる……。

 特に奥さんの方、まるで豚が締め殺される時みたいな叫び声あげるのよ。

 普段はお腹抱えて清楚ぶってるけど、あれ絶対、旦那へのアピール演技でしょ?

 本当、恥知らずだわ。

 その下には、悪意に満ちたレスが連なっていた。

>>2 偽装演技確定だなw

>>5 そういう女に限って、裏じゃ乱れてるんだよ

>>8 いっそドアに張り紙でもしてやれ

 羅列される文字を見て、全身の血が瞬時に凍りつく。

 書き込みにある階数、部屋の特徴、防音構造……間違いなく、我が家のことだ。

 つわりが酷くて漏らしていた私の苦痛の呻き声が、こんな卑猥な騒音として曲解されていたなんて。

 さらに最悪なことに、私はリビングのテーブルに置かれた夫――篠原剛のスマホに届いたLINEの通知を見てしまった。

『隣の奥さん、夜の声すごいですねぇ。篠原さんって、そんなに凄いの?♡』

 送り主は、間違いなくあの書き込みをした隣人の女だ。

 外ヅラが良く、常にエリート然として世間体を気にする剛は、普段ならこの手の嫌がらせは無視するはずだった。

 そして眼鏡の位置を直しながら、敬語で冷ややかに吐き捨てるのだ。「恥知らずな女ですね」と。

 私が妊娠三ヶ月を迎える、その時までは。

 つい先ほど、ロック画面に表示された剛の返信を見て、私は目を疑った。

『信じないなら、試してみるか』

 信じられない。

 震える指でアイコンをタップし、何度も確認する。

 間違いなく、剛本人のアカウントからの送信だった。

『信じないなら、試してみるか』

 その文字列が脳内で拡大され、太字になり、まるで呪いのようにこびりつく。

 背筋に冷たいものが走った。

 試してみる?

 何を?

 まさか、私がつわりで酷い状態だから、夜の生活ができない代わりに……剛は浮気を?

 アイランドキッチンの向こうでは、剛がまだ談笑を続けている。

 その一挙手一投足は、どこまでも知的で優雅だ。

 生ハムを切り分けながら、隣に立つ真由美と楽しげに話している。

 ガタッ。

 私は勢いよく立ち上がり、椅子が床を擦る不快な音を立てた。

 嫌な汗が止まらず、体の震えが収まらない。

 私は引きつった笑みを浮かべ、その場から逃げ出した。

「ちょっと、お手洗いに」

 洗面所の鏡に映った自分は、酷い吐き気のせいで顔色が土気色に淀んでいた。

 私は思わず、相田真由美のことを思い浮かべる――。

 彼女が越してきたのは二ヶ月前。

 初対面の時、彼女は黒いタイトなミニスカートに派手な巻き髪で、マンションの廊下でも異彩を放っていた。

 社交辞令の挨拶をしようとした私を遮り、真由美は口元を押さえて大袈裟に声を上げたのだ。

「あらやだ奥さん、旦那様すっごくイケメン!」

 彼女は遠慮会釈もなく、剛の体を上から下まで嘗め回すように見つめた。

「すごぉい。エリートサラリーマンって感じなのに、体もガッチリしてる。見てよ、シャツの上からでも筋肉凄いのが分かるわぁ」

 あの時。

 私は彼女のことなど歯牙にもかけていなかった。

 私と剛は同じ児童養護施設の出身で、幼馴染であり、唯一無二の家族だ。

 私には自信があった。恵まれない境遇から這い上がり、名門大学を出て大手企業に勤める私は、容姿も能力も誰にも負けていないと。

 対して真由美はすでに三十五歳。目尻のシワは隠しきれていないし、腰回りの贅肉がタイトスカートに食い込んでいるのが見て取れた。

 だから。

 この二ヶ月間、真由美のあからさまな誘惑に対し、私は「近所付き合い」を優先し、日本の貞淑な妻としてひたすら耐え忍んできたのだ。

 個室に篭った数分の間に、最悪の結末が脳裏をよぎる。

 流産、離婚、そしてこの冷たい東京の街で、シングルマザーとして孤独に生き抜く未来。

 ふらつく足取りでリビングに戻ると、真由美が剛のすぐそばに寄り添っているのが見えた――。

 彼女は明らかに、今日のために着飾っていた。

 濃密なつけまつげ、跳ね上げたアイライン、そして挑発的なほど鮮やかな真紅のルージュ。

 若々しく端正な剛と並んでいると、そこには奇妙な調和すら漂っている。

 私は表情を凍らせ、掠れた声で呼んだ。

「篠原さん」

 楽しげな空気が、私の声で一変する。

 全員の笑顔が強張り、視線が一斉に私に集まった。

 一瞬。

 空気が凝固したような静寂が流れる。

 沈黙を破ったのは真由美だった。彼女は艶めかしい仕草で長い髪を耳にかけ、猫なで声で言った。

「あらぁ~、里香さん。てっきり具合が悪くて戻ってこないかと思っちゃった!」

 彼女は私の目の前で、わざとらしく剛の二の腕に軽く触れた。

「女の人って、妊娠中が一番大変ですもんねぇ。篠原さんも、奥さんを大事にしてあげなきゃ。私見たことあるんですよ、子供産んだ途端に完全にオバサン化しちゃう人。顔はシミと吹き出物だらけで、胸もお腹も空気の抜けた風船みたいに垂れちゃって……子供連れて歩いてたら、お祖母ちゃんと間違われたりしてねぇ~」

 言いながら、真由美は大袈裟に身震いしてみせる。

 ソファの反対側に座っていた健治が、彼女の揺れる胸元を見て、下卑た笑みを浮かべた。

 剛はといえば、眼鏡のブリッジを指で押し上げるだけで、反論する素振りすらない。

 私の理性は、そこでプツリと切れた。

 大股で歩み寄り、テーブルの上の赤ワインのボトルを掴むと、真由美の頭上へ掲げ――。

 ドボドボドボ。

 中身をすべて、ぶちまけた。

 彼女のあげる甲高い悲鳴を聞きながら、私は歯を食いしばって罵声を浴びせる。

「この泥棒猫!」

 鬼の形相で剛の頬を張ってやろうと腕を振り上げると、彼は恐ろしい形相で私の手首をガシリと掴んだ。

 怒号が飛ぶ。

「里香!」

 剛は、ワイン塗れになった真由美を背中に隠し、私に向かって怒鳴った。

「お前、正気か?!」

 涙が溢れて止まらない。

 目の前の剛は、見たこともないほど凶暴な表情で、氷のような視線を私に向けている。

 結婚して数年、彼がこんな顔を私に見せたことは一度もなかった。

 私は剛を睨みつけ、全身を震わせながら訴えた。

「篠原剛……っ」

 私は真由美を指差す。

「この恥知らずな女のために、私を怒鳴るの?」

 これまでの全ての我慢と悲しみが込み上げてくる。

 つわりのせいで夜も眠れず、食事すら拷問のような日々。

 たった二ヶ月で体重は五キロも落ちた。

 私が一番苦しんでいる時に、唯一の家族である夫は、隣の女と「試してみるか」なんてメッセージを送り合っていたのだ。

 互いを庇い合う二人の姿を見ていると、彼らがベッドで絡み合う映像が勝手に脳裏に浮かんでくる。

 施設で身を寄せ合って生きてきた思い出が、泥にまみれていくようだ。私は堪えきれず、泣き叫んだ。

「いいわよ、剛。明日役所に行って離婚届を……」

「俺は、真由美さんを健治に紹介するつもりだったんだ! 一体何を発狂してるんだお前は!」

 バンッ! と剛がテーブルを叩いた。

 私は呆然として彼を見上げる。

 剛は額に青筋を浮かべながら、バツが悪そうにテーブルの向かいにいる健治を見た。

「健治、すまん……。分かってやってくれ、里香は今……妊娠中で情緒不安定なんだ。少し被害妄想が入ってて……。それに……真由美さんはいい人だ、里香が言うような女じゃない……。また改めて、紹介させてくれ……」

 そう言うと、彼は顔を朱に染め、気まずそうに真由美から目を逸らすと、強引に私の腕を引いて寝室へと引きずり始めた。

「健治、悪いが真由美さんを拭いてやってくれ。俺は里香を連れて頭を冷やさせてくる」

 頭が真っ白になった。

 ただ『試してみるか』という言葉だけが、虚しく木霊している。

 何か言い返そうとしたが、剛の冷え切った声に遮られた。

「いい加減にしろ。これ以上恥を晒したいのか?!」

 引きずられていく最中。

 私は振り返り、健治が立ち上がって真由美に上着をかけてやる光景を目にした。

 言いようのない感情が胸に渦巻く。

 本当に……そうなの?

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