第3章

 剛はずっと私を抱きしめたまま、窓の外が白むまで離そうとしなかった。

 隣の「あの狂った女」について、彼の口からいい言葉など一つも出てこない。

 普段の温厚で知的な商社マンの仮面は消え失せ、露骨な嫌悪感が顔に張り付いている。

「あんな常識外れな女、隣人になるなんて一生の不覚だ」

 彼のなだめるような声に包まれ、私はどうにか眠りについた。

 理性は「もう終わったことだ」と告げている。だが、女の勘という警報機が、頭の中でけたたましく鳴り響いていた。

 転機は、妊婦健診の日に訪れた。

 医師は検査結果を見て、安定期に入ったことを笑顔で祝福してくれた。そして遠回しに、適度な夫婦生活なら問題ないと告げたのだ。

 その夜、剛が疲れ切った様子で帰宅した。

 着替えている隙を見て、私は試すように背後から彼の腰に腕を回した。

 反応は劇的だった――。

 彼の背筋が鉄のように強張り、まるで火傷でもしたかのように、私の腕を反射的に振りほどいたのだ。

 三ヶ月の禁欲生活。

 心身ともに健康な成人男性が、妻の誘いに対して生理的な反応を見せないどころか、拒絶さえしている。

「悪い、里香」

 剛は背を向けたまま、視線を泳がせた。口から出るのは完璧な言い訳だ。

「昨日はよく眠れなくてさ。今日はクライアントに振り回されて、どうしてもそういう気分になれないんだ」

 彼はそう言いながら、私から安全圏へと後ずさりする。

「それに、お腹の子のこともあるし。少し我慢しよう」

 逃げるように書斎へ駆け込む背中を見つめながら。

 私の心に残っていた最後の一縷の望みは、音を立てて消え失せた。

 家で食事をしない男の理由はただ一つ。

 外で腹一杯食べてきたからだ。

 疑念の種はひとたび撒かれると、瞬く間に大樹へと成長した。

 私は湧き上がる疑いを必死に押し殺し、普段以上に甲斐甲斐しく振る舞った。

 そして一週間後、餌を撒いた。

「結衣が失恋しちゃったみたいで。お腹が重くなる前に、千葉まで行って慰めてあげたいの」

 剛の動きがコンマ数秒止まる。すぐに心配そうな表情が貼り付けられた。

「一人で大丈夫か? 俺も休みを取って送ろうか?」

「ううん」

 私は笑顔で首を振り、彼のネクタイを整える。

「昇進の大事な時期でしょう? 仕事に集中して。四、五日で戻るから」

出発の朝。

 剛は玄関で、感動的な別れの茶番劇を演じてみせた。

 抱擁、キス、そして「無事を知らせろ」という過剰なほどの念押し。

 私は胃の奥からせり上がる吐き気を堪え、その茶番に付き合った。

 エレベーターのドアが閉まった瞬間、顔に張り付いていた笑顔が崩れ落ちる。

 マンションを出た私は駅には向かわず、近くのビジネスホテルへと身を翻した。

 Wi-Fiに接続し、監視アプリを起動する――それは出発直前、玄関の雑多な荷物の山に忍ばせておいた予備のスマホだった。

 画面の中の剛は、会社になど行っていなかった。

 エレベーターの中で誰かに電話をかけ、あられもない笑顔を浮かべている。

「里香みたいな施設育ちの孤児、俺と別れてどこに行けるってんだ?」

「それに、腹の子がいる限り、何か勘づいても見て見ぬふりをするしかないさ」

「それが、ああいう女の弱点なんだよ。俺が離婚を切り出さない限り、死んでも出て行きゃしない」

 イヤホンから流れる言葉の一つひとつが、氷柱のように鼓膜を突き刺す。

 不思議なことに、涙は出なかった。

 画面の中で彼が大手を振って自宅に戻るのを見届け、私は異常なほど冷静にクリニックへ電話をかけた。

「もしもし、検診をキャンセルしたいんですが……はい。中絶手術の予約をお願いします。できるだけ早く」

 正午十二時。

 剛からLINEが届く。

『着いたか?』

 私は用意しておいた風景写真を送信した。

『今着いたよ。お昼食べてる』

 魚が針にかかった。

 返信から間もなく、監視カメラの中の剛はエリートの皮を脱ぎ捨て、ラフな部屋着に着替えた。

 ドアを開けて出て行ったが、エレベーターには向かわない。

 慣れた足取りで、隣の真由美の家へと吸い込まれていった。

 私はリュックを掴み、チェックアウトを済ませてタクシーを拾った。

 心臓が胸郭を突き破りそうなほど激しく打ち付けている。

 あの焦げ茶色の防盗ドアの前に立った時、中の物音は隠しようもなかった。

 真由美の声は、吐き気を催すほど甘ったるい。

「んん……っ、キツいよぉ、全然抜けない……」

「焦るな、俺がやる。乾きすぎてて噛んじまってるんだ」

「ん……っ、剛さんすごぉい、力持ちぃ。あ、動いたぁ~」

「抜けたから、次は新しいの入れるぞ? 我慢しろよ」

「あ! 入った……すごい圧迫感、中までパンパンって感じ~」

 私は無表情でボイスレコーダーを構え。

 もう片方の手でドアを激しく叩いた。

 室内が瞬時に静まり返り、慌ただしい足音が響く。

 三十秒ほどの沈黙の後、ドアが開いた。

 上半身裸の剛が目の前に現れる。首筋には汗が光っていた。

 私を見た瞬間、その偽善的な仮面が剥がれ落ち、瞳が揺れる。

「り……里香? どうしてお前――」

 反応する隙を与えず、私はスマホを掲げて室内に踏み込もうとした。この犬畜生どもの醜態を記録するために。

 だが剛はすぐに平静を取り戻した。

 体で入り口を塞ぎ、口元に嘲笑を浮かべる。

「はっ、なんだこれ。浮気調査か?」

 まるで笑い話でも見るかのような目だ。

「なぁ、韓流ドラマの見過ぎじゃないか? それとも妊娠中のホルモンバランスでおかしくなったか?」

 目の奥が熱くなる。

 脳裏をよぎるのは、かつて身を寄せ合って生きてきた日々の記憶。

 彼に父親になる夢を叶えてあげるため、痛みの恐怖を克服したのに。その結果が、この屈辱だ。

 互いに唯一の家族だと思っていた。

 それは私の一方的な思い込みだったのだ。

「今のお前、ヒステリー起こしてて見てられないよ」

 剛は迷惑そうに眉をひそめ、理不尽に騒ぐ狂人を見る目を向ける。

 その時、シルクのネグリジェを纏った真由美が歩み寄り、自然な動作で剛の肩に顎を乗せた。

「あらぁ、里香さんじゃないですか。どうしてそんなに怒ってるの?」

 彼女は挑発的な視線を私に投げ、剛の腕に絡みつく。

「せっかくだし、一緒にご飯でもどう?」

 言い返そうとした瞬間。

 視線が彼らを越え、キッチンから出てきた男を捉えた。

 三浦健治。

 彼は脚立の上に立ち、黒く焼き切れた古い電球を手に、呆然とこちらを見ていた。

 私の強張った表情を見て、真由美はわざとらしく口元を押さえる。

「やだ、奥さん誤解しちゃった? ウケる」

 彼女は天井のシーリングライトを指さした。

「私と健治、来月入籍するの。で、片付けしてたんだけど」

「電球が錆び付いちゃって、健治が不器用だから取れなくて。剛さんが親切に手伝ってくれてただけよ」

「服が汚れるからって脱いだだけなのに、奥さんどこまで想像たくましくしちゃったわけ?」

「説明する必要はない」

 剛は冷たく彼女を遮った。

 一歩外へ踏み出すと、乱暴に私の手首を掴む。

「里香は疲れてるんだ。帰って休ませる」

 次の瞬間、彼は私の手からボイスレコーダーをもぎ取り。

 大理石の床に叩きつけた。

 パァン、と乾いた音が響く。

 部品が四散した。

 私は恐怖で身を竦ませ、とっさにお腹を庇う。

 剛はそれを見ようともせず、氷点下の視線を浴びせた。

「もういい加減にしろ。これ以上恥をかかせんな」

 震えが止まらない。唇を噛み締め、涙を必死に堪える。

 かつてあれほど私を慈しんでくれた男が、今は私の体をゴミのようにドアの外へ突き飛ばした――。

 ドンッ!

 目の前で防盗ドアが重々しい音を立てて閉ざされる。

 私は冷たい廊下に尻餅をつき、膝に鋭い痛みが走った。

 ドアの向こうから、真由美の白々しい宥める声が聞こえる。

「剛さんってば。妊婦さんなんだから、もし転んで何かあったら……」

 剛の声には、軽蔑と冷酷さが満ちていた。

「妊婦がどうしたってんだよ。世界中が自分を崇めるとでも思ってんのか?」

「転んだくらいで死にゃしないだろ。他の女は腹が大きくても働いてるってのに、あいつだけ贅沢病だ。一日中疑心暗鬼になりやがって」

「生活が楽すぎて暇なんだよ!」

 ドア一枚隔てた先で、彼の罵倒は鮮明に聞こえてくる。

「頭の中どうなってんだか。まるで精神病質者(サイコパス)だよ」

「こんな生活、もううんざりだ。息が詰まる!」

 私は壁に手をつき、どうにか立ち上がった。

 二ヶ月前、妊娠が分かった時、私を抱きしめて涙を流した彼の姿がまざまざと蘇る。

 苦労をかけた分、一生かけて償うと言ってくれた。

 男の誓いなんて、賞味期限はワンシーズンも持たないらしい。

 重い足を引きずり、自宅へ戻る。

 隣からはまだ、真由美の下品な笑い声が漏れ聞こえていた。

 その一声一声が、私の愚かさを嘲笑っているようだ。

 スマホのカレンダーを開き、明日の手術予約を確認する。

 そしてベッドに潜り込み、布団を頭まで被った。

 闇の中で、私は瞳を閉じる。

 夢は、覚めたのだ。

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