第2章 ギルド内の権力ゲーム
森の外縁には、まだ生々しい血の匂いが漂っていた。
赤石コノミは地面に倒れ伏し、純白のローブは猛毒蜘蛛の毒液で焼け爛れ、無数の穴が開いている。左腕には深い爪痕が刻まれ、滲み出た血が土を黒く染めていた。その顔色は、まるで死人のように白い。
傍らには、小百合が身を縮こませていた。彼女の服にもいくつかの裂け目があり、その瞳には九死に一生を得た恐怖の色が色濃く浮かんでいる。
「お、お姉様……」
コノミが震える手を伸ばした。
「助けて……」
私は彼女を見下ろし、口元に氷のような笑みを浮かべた。
——先ほどの戦闘が、昨日のことのように思い出される。コノミは渋々先頭を歩いていたが、猛毒蜘蛛の群れを見るや否や恐ろしさに足がすくみ、向きを変えて逃げ出したのだ。だが、猛毒蜘蛛の速さは彼女の想像を遥かに超えていた。瞬く間に包囲され、鋭い爪で深手を負わされたのである。
もし私が間に合わなければ、二人とも今頃、蜘蛛の餌食となっていただろう。
「どうしたの?」
私はゆっくりとしゃがみ込み、彼女の頬を指先でなぞった。
「大陸を救うためなら何でもするって、さっきは威勢が良かったじゃない。魔物に少し追われたくらいで、もう音を上げるのかしら?」
「赤石かおり!」
ギルドの方角から、怒りに満ちた咆哮が聞こえた。
振り返ると、屈強な体つきの中年男性が大股でこちらへ向かってくる。胸には、金色のA級冒険者章が鈍く光っていた。
父、赤石明。
「何をしているんだ!」
彼はコノミの元へ駆け寄り、痛ましげにその体を支え起こした。
「どうしてコノミを隊列の先頭に行かせたりしたんだ! 彼女はヒーラーなんだぞ!」
私はゆっくりと立ち上がり、目に嘲りの色を浮かべる。
「へえ? じゃあ、ヒーラー様の命は、私みたいなC級冒険者の命より尊いとでも言うわけ?」
「当然だろう!」
赤石明は、さも当たり前のように言い放った。
「コノミは希少なB級ヒーラーだ。彼女の価値は——」
「価値?」
私は彼の言葉を遮った。
「なるほどね。お父様の目には、私たち姉妹の価値はギルドの等級で測れるものだったんだ」
赤石明はぐっと顔色を変えた。
「そういう意味じゃない!」
「じゃあ、どういう意味?」
私は一歩ずつ詰め寄る。
「お前は……」
赤石明は言葉に詰まった。
コノミが弱々しく父の袖を引く。
「お父様、かおりお姉様は狂ってしまったわ……私を守ってくださらないどころか、陥れようと……」
「なんだと!」
赤石明が、憎悪の籠った目で私を睨みつけた。
「かおり! 姉として妹を守らず、逆に害そうとするとは! お前の良心は犬にでも食われたのか!」
その言葉を聞いて、私は思わず噴き出してしまった。
「守る?」
私は涙が出るほど笑った。
「お父様、その可愛い娘に聞いてみたらどう? さっきギルドで、どうやって小百合を『守ろう』としたのかをね」
小百合がおずおずと口を開いた。
「明おじ様、コノミ様は先ほど、確かに私をおとりにしようと……」
赤石明は気まずそうに顔をしかめたが、すぐに居直ったように声を荒らげた。
「そ、それは大局のためだ! コノミは人々を救うために——」
「大局のため?」
私は冷笑を浮かべ、彼の言葉を遮る。
「それなら、さっきコノミ自身がその『大局のため』とやらを身をもって体験したわけだけど、何か問題でも?」
「大ありよ!」
コノミが、金切り声を上げた。
「被害に遭ったのがあなたじゃないから、そんな気楽なことが言えるのよ!」
空気が、一瞬で凍りついた。
私はコノミの怒りに歪んだ顔を見つめ、心の奥底で燻っていた怒りが完全に爆発した。
「被害に遭ったのが、私じゃない?」
私は彼女の言葉を一つ一つ反芻し、そして突如として声を荒らげた。
「なるほどね、だから前世では、あんなに気軽に私を地獄へ突き落とすことができたんだ!」
「前世? 何を言ってるの?」
コノミと赤石明は、呆気にとられた顔で私を見た。
「とぼけるな」
私はコノミの眼前に立ち、その瞳を射抜くように見下ろす。
「影の森、魔物誘引剤、賢者の石……まさか、全部忘れたなんて言わせないわよ?」
コノミの顔が、みるみるうちに血の気を失っていく。
「な、なんであなたがそれを……」
口にした瞬間、彼女は致命的な失言に気づいた。
赤石明が、訝しげな視線を娘に向ける。
「コノミ? お前たち、一体何の話をしているんだ?」
私は嘲笑を浮かべながら、一瓶の薬を取り出した。まさしく前世でコノミが私の魔力回復薬とすり替えた、高濃度の魔物誘引剤だ。
「これに見覚えは?」
コノミの目は絶望に見開かれ、全身がわなわなと震えている。
「ありえない……こんなもの、私はまだ……」
彼女は、またしても墓穴を掘った。
赤石明の顔色も険しくなる。
「コノミ、お前は一体何を企んでいるんだ?」
「何も企んでなんかないわ!」
コノミは必死に首を振る。
「かおりお姉様の言ってることは、全部でたらめよ!」
だが、その狼狽した態度が、全てを物語っていた。
私は薬をしまい、目に昏い殺意をみなぎらせる。
「今回は、二度とお前に私を害する機会は与えない」
そう言うと、私は静かに目を閉じ、体内で覚醒した新たな力を呼び覚ました。
魔物契約——発動!
森の奥深くから、地を揺るがすような咆哮が響き渡った。
続いて、十数匹の影狼が茂みから姿を現す。その目は不気味な赤い光を放ち、私の背後に整然と隊列を組んだ。
「なんだと!」
赤石明は驚愕に目を見張り、後ずさった。
「これは……魔物支配の能力か!」
「支配なんかじゃない」
私はゆっくりと目を開ける。その瞳は、影狼たちと同じ不吉な紅に染まっていた。
「契約よ。対等な仲間としての、ね」
さらに多くの魔物が森から溢れ出てくる——寒毒蜂、鉄甲熊、そして先ほどコノミを襲った猛毒蜘蛛たちまでもが、従順に私の足元へ這ってきた。
ギルドの外縁は、瞬く間に魔物の大軍に包囲された。
赤石明とコノミは顔面蒼白になり、なすすべもなく震えている。
「今、一つ決定を告げる」
私の声は、地獄の底から響くように冷たかった。
「今日この時から、この隊の指揮権は私が掌握する。全員、私の指示に従ってもらう。逆らう者は……」
私は傍らの魔物たちに目をやった。言わんとすることは、火を見るより明らかだろう。
「気でも狂ったか!」
赤石明は怒鳴った。
「私はお前の父親だぞ! この私を誰だと思っている! A級冒険者の赤石明だぞ!」
「A級?」
私は鼻で笑った。
「お父様、あなたはもう引退した身でしょう。それに、等級なんて絶対的な力の前にあっては、ただの紙切れに過ぎないわ」
一頭の巨大な影狼王が群れの中からゆっくりと歩み出てきた。体高は実に三メートルはあろうか。その身にまとう威圧感は、息が詰まるほどだ。
赤石明はごくりと唾を飲み込み、自分が到底敵わないことを悟った。
「コノミ、行くわよ!」
コノミが突然立ち上がり、小百合に視線を向けた。
「小百合、私たちと一緒に離れましょう? 赤石かおりはもう狂ってるわ。あんなのに付いていったら死ぬだけよ!」
小百合はコノミを見て、それから私を見て、目に葛藤の色を浮かべた。
「どうする、小百合?」
私は穏やかに彼女を見つめる。
「誰について行きたいか、自由に選んでいいわ」
コノミは期待に満ちた顔をしている。彼女は小百合が自分について来ると信じているのだ。何しろ自分は高位のヒーラーで、私はどう見ても魔物に操られた狂人にしか見えないのだから。
小百合はしばらく黙っていたが、やがてきっぱりと首を横に振った。
「ごめんなさい、コノミさん。本当に私の命を救ってくださったのはかおりさんです。あの方を裏切ることはできません」
コノミの顔色が、さっと鉄のように青ざめた。
「後悔するわよ!」
彼女は歯ぎしりして言った。
「赤石かおりに殺されたとき、忠告しなかったなんて言わないでよ!」
「そうかしら?」
私は冷笑を浮かべる。
「じゃあ、あなたはどう思う? 自分を死地に送り込もうとした人間と、その命を救ってくれた人間、どっちについて行く方が安全かしらね?」
コノミは口を開けたまま、ぐうの音も出ないようだった。
赤石明はその一部始終を見て、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「いいだろう、上等だ」
彼は私をきつく睨みつける。
「赤石かおり、今日の選択を後悔させてやる」
「そう?」
私は傍らの影狼王の頭を撫でながら言った。
「どちらが代償を払うことになるか、見ものね」
影狼王が低く咆哮すると、他の魔物たちもそれに呼応して嘶いた。
赤石明とコノミはその勢いに気圧されて顔を白くし、それ以上何も言えず、すごすごと踵を返した。
彼らが遠ざかった後、私は小百合に向き直る。
「後悔してない?」
小百合は力強く首を横に振った。
「後悔してません。かおりさん、あなたを信じます」
私は手を伸ばし、彼女の頭を優しく撫でた。
「なら、ついて来なさい。本当の強さとは何かを、あなたに見せてあげる」
周りの魔物たちが、私の言葉に呼応するかのように低く嘶いた。
この人生では、もう誰かの踏み台にされるだけの存在じゃない。
私を傷つけた全ての者に、その罪を贖わせてやる。相応の代償を、払わせてやる!







