第3章

竹内友奈は地域の地図を握りしめ、印のつけられた一点――斎藤先生のクリニックをじっと見つめていた。

「川島奈央、そこは本当に安全なの?」

竹内友奈は隣に立つ銀髪の女性にささやいた。

川島奈央は頷いた。

「斎藤先生のところへ行きなさい。いい人だし……」

彼女は意味ありげに言葉を切った。

「そこはとても安全よ。山崎家の男たちは、みんなあそこで診てもらっているから」

竹内友奈の胸が締め付けられた。それは、山崎達也もそこに現れる可能性があるということだった。

「でも」

川島奈央は心配そうに彼女を見つめて言った。

「赤ちゃんと二人きりじゃ無防備すぎるわ。男の人の護衛が必要よ」

竹内友奈が辺りを見回すと、角で煙草をふかしている近所で有名な怠け者、杉山隆が目に入った。大胆な計画が彼女の脳裏をよぎった。

「俺に何をしてほしいって?」

杉山隆は信じられないという顔で、口から煙草を落としそうになりながら彼女を見つめた。

竹内友奈は一万円札を五枚取り出すと、彼の目の前でひらひらさせた。

「数時間だけでいいの。私の夫役を演じてほしい。報酬として五万円払うわ」

杉山隆の目はすぐに輝いたが、すぐに困惑の色が浮かんだ。

「なんで偽の夫必要なんだ?別にアンタ、ブスってわけでもねぇのに」

「私たちの安全のためよ」

竹内友奈は彼の手に紙幣を押し付けた。

「いいこと、あなたの名前は小野良介。私たちは結婚したばかり。クリニックでは、握手以外で私に触れないで」

杉山隆は金を数えながら、にやりと笑った。

「交渉成立だな!しかし姐さん、一体どんな厄介事に巻き込まれてるんだ?」

竹内友奈は答えず、クリニックに向かって歩き出した。杉山隆は、こんなに楽な五万円の稼ぎは初めてだと考えながら、慌てて彼女の後を追った。

クリニックの待合室には、ラベンダーの優しい香りが漂っていた。竹内友奈は隅の椅子に座り、緊張しながら妊婦検診を待っていた。

杉山隆は居心地悪そうに彼女の隣に座り、絶えず辺りを見回していた。

「結構、お洒落な場所だな」

「静かにして」

竹内友奈は低い声で警告した。

「自分の役目を忘れないで」

その時、クリニックのドアが開いた。

白い包帯を頭に巻いた長身の男が入ってきた。竹内友奈の心臓が止まるかと思った。

山崎達也だ。

彼の茶色い瞳が待合室をざっと見渡し、竹内友奈の姿を捉えた瞬間、ぴたりと動きを止めた。彼の胸の奥で何かがざわめいた――説明のつかない引力だった。隅に座るその妊婦は、まるで磁石のように彼を惹きつける温かさを放っているようだった。

彼女は美しかった。明らかに妊娠しているにもかかわらず、その佇まいには気品があり、彼の胸を未知の感情で締め付けた。

山崎達也は気づけば、目を逸らすこともできずに彼女を凝視していた。

彼は一歩一歩、確かめるようにゆっくりと近づいた。

「すみません」

その声は予想外に優しかった。

「つい目に入ってしまったのですが……検診でいらっしゃいましたか?」

竹内友奈の心臓が激しく鼓動した。これは危険な領域だ。

「はい」

彼女はか細い声で答えた。

「ただの定期検診です」

その時、山崎達也の視線が隣で緊張している男に移り、その表情に困惑が浮かんだ。

「そして、あなたは……?」

杉山隆は緊張して咳払いをした。

「小野良介だ。こいつは、俺の妻だ」

「小野良介?」

山崎達也は繰り返した。その声は危険な囁きへと低くなる。

「お前が、小野良介だと?」

彼の瞳にあった温かみは、冷たく計算高いものへと変貌した。だが、その視線が再び竹内友奈に戻ると、彼の表情には葛藤がありありと浮かび上がった。

その日の午後、クリニックの小さな庭園で竹内友奈がベンチに座っていると、山崎達也が近づいてきた。

「隣、いいかな?」

彼の声は驚くほど柔らかかった。

竹内友奈は頷いたが、心の中では警報が鳴り響いていた。記憶を失って以来、山崎達也と個人的にまともな会話をするのはこれが初めてだった。

山崎達也は彼女の隣に腰を下ろし、敬意を払うかのように距離を保った。

「先ほどは驚かせてしまったかもしれません。ただ……」

彼は言葉に詰まった。

「あなたを見ていたら、なんだか……守りたいような気持ちになったんです。説明はできないんですが」

竹内友奈の心臓が跳ねた。

「私のこと、ほとんど知らないくせに」

「それが奇妙なんです」

山崎達也は認め、茶色い瞳で彼女の顔を探った。

「あなたを知っているべきだ、と感じる。まるで、どうしようもなく重要な存在であるかのように」

記憶を失っても、彼の中の何かが二人の繋がりを認識しているのだ。

「旦那さんは」

山崎達也は慎重に続けた。

「あなたのことを、どう扱っていますか?」

竹内友奈はふと、彼を少しからかってやりたい衝動に駆られた。

彼女はわざと声に弱々しさを滲ませた。

「彼は……酷い人ではありません。でも、時々お酒を飲むと、仕事のストレスが溜まっている時は……」

彼女は言葉を濁し、自分の手元に視線を落とした。

山崎達也の拳がゆっくりと握りしめられた。

「彼に傷つけられたことは?」

「身体的にはありません」

竹内友奈は完璧に役を演じきり、ささやいた。

「でも、声を荒げると……怖くなるんです。特に今、赤ちゃんがいるので」

山崎達也の瞳に浮かんだ痛みは本物だった。

「女性が恐怖の中で生きるべきじゃない。特に、あなたのような人が」

竹内友奈は尋ねた。

「私のような人?」

山崎達也の声はほとんど囁きに近かった。

「美しくて優しい。そして新しい命を育んでいる」

彼は彼女をまっすぐに見つめた。

「もし助けが必要になったら、もし危険を感じることがあったら――俺のところに来てください。分かりますか?」

竹内友奈は頷き、すぐに視線を逸らして手をもじもじさせた。

「私……そろそろ旦那さんのところに戻らないと。どこにいるか探しているかもしれません」

彼女は山崎達也の強烈な視線から逃れようとするように、ベンチから立ち上がりかけた。

山崎達也のこんなに近くにいて、彼の瞳に浮かぶ真剣な心配を見て――慎重に築き上げてきた防御壁が崩れそうになっていた。

「待って」

山崎達也は穏やかに言った。彼女を止めようと動くわけではなかったが、その声には静かな切迫感がこもっていた。

「俺を怖がる必要はない」

山崎達也はゆっくりと立ち上がり、距離を保ったまま言った。

「あなたに何かを求めているわけじゃない。ただ……」

彼は言葉に詰まった。

「説明できないんですが、あなたが夫のことで心を痛めているのを見るのが――どうにも気になるんです」

竹内友奈は自分を守るように腕を組んだ。

「あなたには関係のないことです」

「行かなくちゃ」

彼女はささやいた。

竹内友奈は踵を返し、クリニックの方へ駆け戻るように去っていった。庭園に一人残された山崎達也は、なぜ見知らぬ他人の痛みがこれほどまでに自分の心を揺さぶるのか、これまで以上に混乱していた。

黒いセダンの中で、中村大和の手下である吉田真一が双眼鏡で観察していた。

「ボス、例の女、予想通り現れました。そして山崎達也は……まるで彼女を庇うような素振りを見せています」

「面白い」

中村大和は呟いた。

「監視を続けろ。これは使えるかもしれん」

夜になり、竹内友奈は感情をかき乱されながらアパートに戻った。

山崎達也の庇護欲は、彼女の予想をはるかに超えていた。自分の敵と結婚していると信じているにもかかわらず、自分を守ろうとしたのだ。

しかし、そのことが彼女の状況を限りなく複雑にしていた。

彼女はお腹を撫でながら、ささやいた。

「赤ちゃん、あなたのパパは、やっぱり私たちのことを思い出してくれるかもしれないわ――ただ、私が思っていたのとは違うやり方でね」

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